職場、恋愛関係、夫婦関係、家族、友人...。毎日自分以外の誰かに振り回されていませんか?
"世界が尊敬する日本人100人"に選出された禅僧が「禅の庭づくりに人間関係のヒントがある」と説く本書『近すぎず、遠すぎず。他人に振り回されない人付き合いの極意』で、人間関係改善のためのヒントを学びましょう。今回はその第22回目です。
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前の記事「「孤独」と「寂しさ」は異なるものである/枡野俊明(21)」はこちら。
比較することをいっさいやめる
「隣の芝生は青い」という言葉があります。
わが家の庭に立って隣家の庭を眺めると、どうもそちらの芝生のほうが青々として綺麗に見える、ということですね。つまり、実際は同じようなものであるにもかかわらず、他人のものはどんなものでもよく見えるのです。
それが羨望や嫉妬、自己卑下や自己否定にもつながる。
「あんなにすばらしい芝生がある家に住むことができて羨ましい(妬ましい)」
「それに比べて、こんなにみすぼらしい芝生の家にしか住めない自分は不甲斐ない(ダメだなぁ)」
こうしたことは、さまざまな場面で起こります。大学で一緒だったあの人の会社は待遇がいい。同期入社なのに彼はいつも表舞台の仕事を与えられている。彼女の恋人は私の彼より素敵......。いちいちあげていたら、それこそキリがありません。
なぜそんなことになるのか?
答えは簡単で、比較するからです。自分の境遇や状況と誰かのそれを比べるから、余計な思いにとらわれることになるのです。禅では、比較することを強く戒めています。
私は多くの「禅の庭」を手がけてきましたが、自分の作品とどなたかの作品を比べるということはまったくありません。それだけではなく、自分の作品どうしを比較することもしません。
「今回の作品は前につくったものより、できがよいだろうか?」そんなこと自体があり得ないのです。「禅の庭」はそのときどきの自分の心を表現したものです。自分の心の在り様、心の境地がそのまま「禅の庭」にあらわれているのです。
ですから、まったく同じ敷地にまったく同じ素材を使ってつくったとしても、同じ「禅の庭」になることはありません。つくる時期によって心の在り様、心の境地は違っていますから、その表現である「禅の庭」が一つひとつ違ったものになるのは、至極当たり前の話です。
そのとき、その瞬間の自分を、最大限「禅の庭」という空間に投じていく。そのことに全力を傾ける。それしかできませんし、それ以外にすることはないのです。できあがった「禅の庭」はすべてが、そのときどきのありのままの自分です。比べるという発想が入り込む余地などありません。
そもそも、比べることに何の意味がありますか?
待遇のいい会社にいる友人と自分を比べたら、自分の待遇が改善されるのでしょうか?
同期の仕事と自分の仕事を比べることで、自分にいい仕事がまわってくるのでしょうか?
自分の恋人と彼女の恋人を比べたら、もっといい恋ができますか?
答えはどれも「いいえ」ですね。
比べたところで自分は少しも変わりませんし、境遇や状況が好転することもないのです。羨望や嫉妬、自己卑下や自己否定といったマイナスの思いが渦巻いて、余計に悩ましくなるだけです。もちろん、それらの思いは人間関係をややこしくしたり、歪めたりする原因ともなります。
比較の対象になるのは特定の相手だけではありません。あらゆる情報が飛び交い、日々更新されている現代においては、情報が提示する、実体の不確かなものまでもが、比較の対象になっているのです。
「30代のビジネスパーソンは、こんな快適なマンションに住んでいる!」
「大人の女性なら必携のこのブランド!」
そんな情報に触れれば、心は穏やかではいられなくなります。情報が示す快適なマンションと快適とはいいがたいわが住まいとを比較して、暗鬱(あんうつ)な気分になることだってあるでしょうし、"必携ブランド"をもっていない自分がみじめに思えてくるかもしれません。
しかし、この種の情報は商業主義の戦略の一環として発信されているのですから、根拠のほどは怪しいのではないでしょうか。30代のビジネスパーソンの誰もがそんな快適なマンション暮らしをしているはずは、当然、ないわけですし、何をもってそのブランドを"必携"としているのか、その根拠はきわめてあやふやなのです。そうした情報に振り回されていると、比べることから抜け出せなくなります。ここは情報をブロックする姿勢が求められます。
仕事に関連するものでも、プライベートなものでも、自分がほんとうに必要とする情報はかぎられているはずです。それは積極的にとりに行けばいい。自分がほんとうに必要としていれば、情報の真贋(しんがん)を見抜く目も厳しく、鋭いものになりますから、ふさわしい情報が得られるでしょう。それ以外の情報は、目や耳に入っても右から左に受け流す。なにも、ひっきりなしに垂れ流される情報にいちいち付き合うことはないのです。
「スマホ中毒」という言葉もあるくらい、現代社会は容易にインターネットにアクセスできます。暇さえあればスマホでネット上をむやみに徘徊(はいかい)することは、みずから情報に絡めとられに行っているにも等しい。これは改めるべき習慣でしょう。心当たりのある人は、スマホをポケットに入れるのをやめましょう。手軽に取り出せないようにすることで、使用頻度が軽減されるはずです。
また、他人に関する情報にも注意が必要です。人は他人のことを勝手に詮索して、あれこれと噂話の標的にしがちです。
「彼は出世欲の塊だ」
「彼女の生活は乱れている」
「あの人は誠実そうに見えて、じつは計算高い」......。
いわゆる、レッテル貼りです。そんな情報はほとんどあてになりません。他人がどんな人間であるのかを見きわめるには、自分の目と感性を使うしかないのです。
実際に会って、話をして、ふるまいを見るなかで判断する。どんなレッテルが貼られていようと関係ありません。噂ほどあてにならないものはありません。自分の目で確かめたものだけが真実です。それが他人の正しい見きわめ方だということは、しっかり肝に銘じておいてください。
次の記事「「沈黙」がもつ表現力でコミュニケーションを豊かに/枡野俊明(23)」はこちら。
1953年、神奈川県生まれ。曹洞宗徳雄山建功寺住職、多摩美術大学環境デザイン学科教授、庭園デザイナー。大学卒業後、大本山總持寺で修行。禅の思想と日本の伝統文化に根ざした「禅の庭」の創作活動を行い、国内外から高い評価を得る。2006年「ニューズウィーク」誌日本版にて「世界が尊敬する日本人100人」にも選出される。主な著書に『禅シンプル生活のすすめ』、『心配事の9割は起こらない』(ともに三笠書房)、『怒らない 禅の作法』(河出書房)、『スター・ウォーズ禅の教え』(KADOKAWA)などがある
『近すぎず、遠すぎず。』
(枡野俊明/KADOKAWA)
禅そのものは、目に見えない。その見えないものを形に置き換えたのが禅芸術であり、禅の庭もそのひとつである。同様に人間関係の距離感も目に見えない。だからこそ、禅の庭づくりに人間関係のヒントがある――「世界が尊敬する日本人100人」に選出された禅僧が教える、生きづらい世の中を身軽に泳ぎ抜くシンプル処世術。