「あの人は間違っている」「あんなことをするなんて許せない」...と強く思ったことはありませんか? 脳科学者の中野信子さんは「人間の脳は仕組みとして他人に正義の制裁を加えることに快感を覚えるようにできています」と語ります。その中野さんの著書『人は、なぜ他人を許せないのか?』(アスコム)では、脳科学的観点から見た「ネット社会にはびこる正義中毒」や「日本特有の社会的な仕組み」などを解説しています。今連載では、「心穏やかに過ごすため」のヒントにつながる5つの記事をご紹介していきます。
人格攻撃と議論の決定的な違い
人を許せなくなる、いわゆる正義中毒者が持つ攻撃性について考察していこうとしているわけですが、見方によっては正義中毒の人々こそが言いたいことを言っているのだから、むしろ日本的なあり方とは対極にあるのではないかと考える方もいるかもしれません。
また、自分の考えや本音を隠すのが日本人の悪いところだと考えれば、正義中毒の人々の方がまだ自分の考えを主張しているのだから、日本人の悪いところをむしろ克服しているのではないかという見方をする人もいるでしょう。
これは、以下のように説明することができます。
日本人が議論だと思ってしていることは、対立する二つの意見を吟味・検討してより良い結論を導くというものなどではなく、なぜかたいがい人格攻撃になってしまいます。
けなし合いと議論はまったく違うものなのですが、正義中毒の人々は、相手の主張の良いところを取り入れるということが、なかなかできません。
だからこそ「中毒」と呼ぶわけですが、議論とは異なる舌戦は、まるで相手はバカだ、相手よりも自分が優れていると証明するための言葉による殺し合いのようなものです。
結局、正義が一つしかないという前提があるために、彼らの言説は、議論に昇華する余地を持たないのです。
時には、権威者が示した方針に従う優秀な駒になることが正義であり、正義同士のぶつかり合いも権力闘争や主導権争いに利用されてしまってきたため、相手を受け入れることは即、仲間に対する裏切りと捉えられてしまったりもしてきました。
さらに言えば、そうした土壌では議論よりも根回しが重要とみなされたので、本質的な議論が発達しなかったのかもしれません。
このような日本社会ですが、良いか悪いかは別として、他の国から見ると、かなり基準となる考え方の違う国です。
ですが、今後日本人が、高齢化や少子化などの世界中の人々が未踏の問題に、世界に先駆ける少子高齢化の国の人間として直面するとき、はたして議論する力を持たずに対応することが可能なのか、少々心配になります。
これまでのような、「海外でできあがったものを移入し、日本向けに適応させるだけ」というやり方ができなくなるからです。
いまだ世界で答えの出ていない問題は、とにかく当事者が考えなければ解決策が出ないのですから。
日本でも、人に従う一方ではなく、いよいよ本当の意味で議論を戦わせなければならない時がやってきているように思うのですが、日本人が歴史に試される局面にさしかかったとき、どんな力を発揮できるのか、世界中の知性が注目しているのではないかと感じます。
自己主張が苦手な人が増える地政学的条件
議論をできるだけ避けようとするのは、日本人の目立つ特徴です。
それでは、他のアジア諸国はどうでしょうか。
中国人も韓国人もインド人も、一般的には日本人よりも発言することを好むようですし、日本人の基準からすると、自己主張が強いと感じられる場合が多いのではないでしょうか。
これは、一体なぜなのでしょうか。
一つには、地政学的な面での影響が大きいと考えることができます。
多くの国は、他国と国境を接し、常に外敵との争いや好戦的な異民族の侵入や支配などをリスクとして抱えていたのに対し、日本は国内(集団内)における支配権争いが、主たる対人関係上の関心事でした。
急に異民族がやってきて支配されることや、それらの人々に財産を身ぐるみ奪われたり、殺されたりすることは、ほとんどありませんでした。
社会の流動性は低く、集団外との交流も少ない状態で集団生活が続いていきます。
リスクをより減らすために取られた策としては「鎖国」が最も知られた例でしょう。
地域や血縁集団などにおける信頼関係はより強まり、そして誰もがどこかの集団に属していることが当たり前になって、そのことこそが身の安全を図るための重要な証明となります。
何せ、ただでさえリソースがギリギリの国であったのに、災害まで頻発しますから、集団で効率よく、みんなで助け合っていくことが、その環境で生き抜くために最も重要だったのです。
そして、そんな状況にもかかわらず集団に迷惑をかけたり、ルールに背く人間がもし現れたら、その人を集団に置いておくことは集団の人々の不利益に直結したのです。
現代の都市部に住んでいると、こうした考え方は今ではもう消滅しているのではないかと考えがちですが、地域によってはいまだに、回覧板を回さないとか、組合に加入させない、ごみを捨てさせてもらえないなどという、昔ながらの村八分が存在するというニュースが時折聞かれます。
相互に信頼が高い社会は、社会性の高さの産物であって、結果として治安の良さや清潔さなどにもつながっているでしょう。
しかし、相互の仲の良さ(社会性)の罠と言うべき部分も厳然と存在します。
集団的排除といった、何か別のネガティブな側面とトレードオフになっている可能性があるわけです。
日本人の性質が変わるには1000年かかる?
ここまで、日本人ならではの社会性について述べてきました。
しかし、今やすでにグローバル時代であり、しかもインターネットを介してあっという間に情報もお金も動く状況です。
独自の文化、国民性を築いてきた日本人も近い将来、性質や行動が他国の人たちのように変わっていったり、社会性が低くなる方向、つまり正義中毒の人が減ったり、社会的排除が起こりにくくなる方向に変化していったりするのか、気になるところです。
日本が現在のようなペースで変わっていくとすると、それには、はたしてどのくらいの時間が必要なのでしょうか。
このことは、裏返せば現在の日本人がどのくらいかかって今の姿になったのかを考えることで試算できます。
少しややこしくなりますが、現在の遺伝子多型の割合から、数学社会学的に以下のような計算をすることができます。
同一の遺伝子座(染色体やゲノムにおける遺伝子の位置を言う)に属しながら、突然変異などを原因としてDNA塩基配列が変わってしまった遺伝子を、対立遺伝子と呼びます。
この対立遺伝子が1種類だった場合で、どちらも最初は均等に存在したと仮定すると、片方(50%)が0になる(消失する)までには1000年かかる計算になります。
例えば、AとBそれぞれの性質を持つ二つのグループがいたと仮定します。
Aの方が環境に適していた場合、Bが消えるのに1000年かかるということです。
1000年という年月が、現生人類の歴史のなかで長いと考えるか短いと考えるかは、あくまでも捉え方次第です。
しかし、1000年前の平安時代、あるいは800年前の鎌倉時代、300年前の江戸時代と現代とでは、それぞれ産業構造も移動の方法も、コミュニケーションの手段に至るまで、生きていくために最適な方法やそこに必要とされる社会性も大きく変化しているはずです。
一方、防災のレジリエンス(逆境から回復する力)はテクノロジーにより向上したとはいえ、天災の多さ、深刻さは今も昔も変わりません。
つまり、我々が生きる世界はかなり劇的に変化しているにもかかわらず、体の中は、かなり昔の環境に適応させてきた遺伝子をいまだに引きずって生きているということが言えるでしょう。
1000年前は賢かったはずのことが、今では愚かになってしまっているとしても、遺伝子的には全く不思議ではないわけです。
日本に住めば、誰でも「日本人」になるのか
もう少し想像を広げてみましょう。
日本人の遺伝子を一切持たない外国人が日本にやってきて、この社会で生きていく場合、将来彼らはどうなってしまうのでしょうか。
私の考えでは、一世代で変わることはそうないかもしれませんが、その人が持つ遺伝子や人種的な面よりも環境要因の方が強く、日本に住んで数世代を経る長い時間が過ぎればやがて、誰もが日本人的になってしまうと思います。
彼らもやがて、日本における社会性の高さによるメリットとデメリットのふるいに淘汰され、自然災害の恐ろしさと、そこから回復するための方法を学ぶでしょう。
そして、そこに自己を最適化させるためならば、自分の意見を声高に叫ぶよりも、腹の中をなるべく見せずにほほ笑んで、上位の意見、全体的に醸成される雰囲気から大きく外れずに生きていく方がメリットが大きいと知るはずです。
それが肌に合わない人なら、日本を出ていくことが選択できるはずです。
環境要因は、やはり無視できないものなのです。
ここまでは、何が日本人にとって愚かなのか、そしてなぜ同じ日本人同士なのに互いに愚かだとけなし合ってしまうのかを考えてきました。
それには日本という国の特殊性が深く関わっている可能性についても考察してきました。
環境要因を変えることが簡単でない以上、日本人の根本的な考え方、社会性の高さが大きく変わることはなさそうだということも示唆されることを論じました。
なぜ人が人を許せなくなってしまうのか、について考えていきましょう。
ネットの影響で増中の「自分が正しい!」という「正義中毒者」に陥らないための考え方を4章に渡って解説