「病気の名前は、肺がんです」。突然の医師からの宣告。しかもいきなりステージ4......。2016年9月、50歳でがんの告知を受けた刀根 健さん。「絶対に生き残る」「完治する」と決意し、あらゆる治療法を試してもがき続ける姿に......感動と賛否が巻き起こった話題の著書『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)より抜粋。21章(全38章)までを「前半」31章までの「続きのエピソード」を「後半」とし、特別公開します!
完敗......そして......
6月6日。
立川のクリニックのドクターに頼んで書いてもらった紹介状を手に、妻と2人で東大病院の呼吸器科へ向かった。
内科でなく、外科だった。
訪ね先は浜田先生という医師だった。
浜田先生は、がんが転移して真っ白になった肺のCT画面を見ながら言った。
「かなり進んでいます。9カ月前と比較してみても、進行は早いほうだと思います」
「早いほう、ですか......」
これまでやってきたことは何だったんだろう......。
いや、でもまだなんとかなる。
逆転はできるはず。
「今は新薬も認可されてきていますし、ウチでも遺伝子レベルの研究が進んできています。 大丈夫、光はあります」
おお、光はある!?
その言葉を聞くだけでも元気が出た。
「私の専門は外科なので、呼吸器内科の信頼できる先生を紹介します」
「はい。よろしくお願いします」
「私でお力になれることがあれば、なんなりとご相談くださいね」
なんていい先生なんだろう。
帰宅すると、聞いた診断の結果もあるのか、身体がダルく耐えられなくなり、居間に横になった。
「もしかすると、ダメかもしれない」
そんな思いに囚われた。
身体から力が抜けていく。
絶望感に身体がもぎ取られそうになる。
僕は弱いな、本当に弱い。
涙が出そうになった。
思わず近くにいた長男に話しかけた。
「父さん、自分のこと強いと思っていたけど、全然強くなんかないや。弱い。すっごく弱い」
長男は僕の気持ちを慮るように、少し遠慮気味に言った。
「知ってたよ」
「そっか......」
知らなかったのは本人だけ、か。
「でもね......」
長男が続けた。
「自分の弱さも知って、それを受け入れて初めて強くなれるんだと思う」
言うじゃないか、もう僕を越えたな、そう思った。
2日後の6月8日。
僕と妻は再び東大病院を訪れた。
「井上と申します。よろしくお願いします」
年齢は30代半ばだろうか、ハキハキとした受け答えと、こちらを気遣いながら言葉を選ぶ話し方に、好感が持てる医師だった。
「昨年9月1日にがんが見つかり、既にステージ4だったのですが、いろいろ調べた結果、 抗がん剤をやりたくなくて、代替医療をやってきました」
「はい、聞いております。報告も読ませていただきました」
食事療法クリニックのドクターからの紹介状に僕の詳しい経緯が書いてあったらしい。
あのドクターいろいろあったけど、本当にありがたいな。
「で、いただいたCT画像の結果なのですが......」
井上先生は、CT画像を見ながら言った。
「肺がんは、かなり進んでいます」
僕と妻は顔を見合わせた。
左胸にあった原発のがんは、画像上でもわかるぐらい巨大な塊になっていた。
「そうですね、大きさだけだと3センチ×4センチくらいの大きさになっています。同じくらいの大きさのものが他にも複数見受けられます」
どうりで胸の中に異物感があったわけだ。
僕は手でその大きさを作ってみた。
片手では作れない大きさになっていた。
「それと、以前は目立たなかった右の肺にも、数え切れない小さな転移が多く見られます。多発肺転移という状態です」
昨年のCTでは真っ黒できれいだった右胸も、満天の星空のように数え切れない白い粒々が発生していた。
「左の肺の内部のリンパも大きくなっていますね。それが左の首まで転移しています」
確かに左の首は自分で触ってもわかるほど固くふくらんでいた。
井上先生は次に画面を下にスクロールして肝臓の画像を示した。
「それから、肝臓にも転移しています」
そこには色の濃くなった肝臓が写っていた。
「肝臓もですか......」
「はい、でも、これらはまだ、今すぐ命がどうこうのレベルではありません。が......」
「が......?」
「問題は脳です。あーっと、ここです」
今度は脳のCT画像をペンで指差した。
「この薄く色の付いているところに浮腫があります。左の脳です。場所は左眼の上の奥といったところでしょうか」
「浮腫?」
「ああ、すいません。腫れているということです。これだけ大きく腫れていると、相当大きい腫瘍が考えられます」
「と、いいますと?」
「浮腫が5センチ以上ありますから、少なくとも3センチくらいの腫瘍が考えられますし、 もっと詳細に調べてみると、他にも脳転移があるかもしれません」
「......」
「脳は危険なところです。これだけの大きさだと、今すぐに入院しないと危険です。急に手や足が動かなくなったり、最悪、呼吸が止まることも可能性としては、あります」
呼吸が止まる?
「......」
いや、でも僕は入院はしたくない。
急にそんなこと言われても......。
その気配を察したのか、井上先生は遠慮しながらも、はっきりと言った。
「......医者が100人いるとすれば、100人がすぐに入院を勧めるレベルです」
そんなに悪いのか......。
「入院を真剣に考えてください」
血液検査のためいったん席を外し、結果が出る30分後までに、どうするか決めることになった。
僕は診察室を出ると、待合室の天井を見上げた。
横に座った妻は、何も言わなかった。
2人の間に、無言の時間が過ぎた。
「これは、入院しなきゃだよな」
ぽつり、と僕はつぶやいた。
「うん、そうだね」
妻も小さな声で答えた。
2人とも言葉に詰まった。
もう......おしまい。
ふーっ。
僕は頑張った。
やれることは全部やった。
あれもこれも、これもあれも、全部やった。
やってやって、やり尽くした。
これでもかってくらい頑張った。
今まで人生でこんなに頑張ったことはなかった。
まさに、命がけでやってやって、やり尽くした。
それでも、ダメだった。
まさに、完敗。
完璧な、完膚なきまでのKO負け。
これでもう、僕にやれることはなくなった。
できることはなくなった。
ゼロだ。
ナッシング。
もう何もできることはない、何も考えられない。
完全に白旗です......。
神様、降参です......。
そのときだった。
目の前が急に明るくなり、呼吸がさわやかになった。
圧力釜の中のような圧縮された暑苦しい高密度空間から、一気に何もない軽やかな空間に解き放たれた。
なんだ?これ?
突然、僕は爽快感に包まれたのだ。
そうか、もう抵抗するのはやめよう。
もう握りしめるのはやめよう。
できることは何もないんだから、全てをゆだねよう。
もう、お任せしよう。
お任せするしか、ないじゃんか。
ふにゃふにゃと、身体がまるでクラゲになったように力が抜けた。
「大丈夫?」
妻が心配そうに聞く。
「うん、大丈夫」
なぜかとても清々しい気分だった。
僕は今までいた世界と、全く違う世界に、するりと抜け出したのだ。
井上先生に入院することを伝えると、彼はほっとしたように言った。
「脳に関してはすぐに放射線治療を行ないます。今わかっている部分以外にも腫瘍がないかどうか調べなくてはなりません。腫瘍の大きさによって治療法が変わります。まずは脳の治療で2週間みてください。肺の治療はその後に考えます。ですので、とりあえず最低2週間は入院していただきます。そのあとは肺の状況次第でいつ退院できるかはわかりません。ベッドはいつ空くかわからないので、すぐに入院できる準備だけはしておいてください。空き次第ご連絡を差し上げますので」
その後、病院を出て帰宅した。
どうやって帰ったのか、全く記憶がない。
家に帰ると、たまらずに居間で横になった。
だが、不思議な解放感と爽快な気分は続いていた。
これはなんだろう?
全力を尽くした爽快感?
それとも、もう何もしなくてもいいという解放感?
でも、とにかく気持ちがいい。
そっか、手放したのか。
これが〝自分〟を手放した、向こう側の世界か。
向こう側の世界って、なんて気持ちが僕は今までしがみついていた。
自分のやり方、自分の気持ち、自分の恐怖、自分の人生。
自分自身を握りしめていた。
それを手放したんだ。
だからこんなに気持ちいいんだ。
自分というちっこい存在を超えた向こう側は、なんて気持ちいいんだろう。
これが大いなる存在ってやつなのか、これが「サムシング・グレート」ってやつなのか。
これがゆだねるってことなのか。
僕はもう何もしません。
もう何も考えません。
もうじたばたしません。
あとは煮るなり焼くなり、お任せします。
大いなる存在よ、僕を好きなようにどこにでも連れて行ってく ださい。
僕は笑って全てを受け入れます。
口元には自然と微笑が浮かんだ。
「もう、楽しむしかないよ、父さん」
そばにいた長男が言った。
そうだ、もう、楽しむしかない。
人生が僕をどこへ連れて行くのかわからないけど、楽しむことはできる。
仮にあと少ししか生きる時間がなかったとしても、残りの時間を徹底的に楽しもう。
さぁー、楽しむぞー。
ワクワクしてきた。
もう、戦わなくていいんだ。
僕はいったい、今までいったい何と戦ってきたんだろう?
戦わないって、なんて楽なんだろう。
今までの僕は、ここで死んだ。