最近、世界的な企業が哲学者を招き、未来を見据えた経営に行っています。それはヒトの繁栄が生きる道だと認識されているからです。国内経済の低迷は続いていますが、過去日本には「ヒトを追う」経営者がいました。故松下幸之助の側近だった江口克彦は間近で仕事に携わり、23年間に渡って経営の厳しさと妙味を体感してきました。松下翁からの聞き書きした形で経営のコツをまとめた著書『こんな時代だからこそ学びたい松下幸之助の神言葉50』(アスコム)からリーダー論などをご紹介します。
【前回】組織が一致団結するにはガラス張りの経営をする/こんな時代だからこそ学びたい 松下幸之助の神言葉50
【最初から読む】社員が個性を発揮するには明確に方針を打ち出す/こんな時代だからこそ学びたい 松下幸之助の神言葉50
責任者には三つの責任がある
仕事はなあ、自分一人でやろうと思っても、あかんよ。
ほどほどの仕事はできるけどな、大きな仕事はできんわ。
みんなの力を集めんとな。
だから、仕事を部下に任すことが大事やな。
しかし部下に仕事を任せるといっても、その仕事を知ったうえで任せんといかんよ。
任せると、部下はやる気を出して仕事をする。
当たり前のことやね。
人間は誰でも自分が信頼されていると思うときに喜びを感じ情熱を傾け、やる気を出すもんや。
権限の委譲というのか。
それによって部下は成長するな。
これが責任者の一つ目の責任や。
わしは昔からからだが弱かったからな、自分ではできへんかったから、自然に部下の人に仕事を任せてやってもらうようになったんやけど、まあ、それがよかったんやな。
けど、そこでなぜ責任者というかというと、自分のチームの仕事をやりあげるという、そういう意味で責任者であるということやな。
しかし、仕事をやりあげるというだけの責任であれば、きのう入ってきた新入社員でも自分の仕事をやりあげなければならんという意味では責任者といえる。
けど、そういう新入社員は責任者とは言わんな。
責任者というのは、次に、新しい仕事を創り出す、という責任があるんや。
これが二つ目の責任や。
部下に仕事を任せる。
いままで自分が持っていた仕事の、百のうち二十を部下に渡せば、二十自分の仕事に隙間ができる。
その二十で何をするか。
責任者はそこで新しい仕事を創造せんといかん。
責任者一人一人がそういうように新しい仕事を創り出すとき、会社全体が大きくなる。
発展するということになるんや。
三つ目は、いうまでもなく、部下を育てる、人材を育成するという責任があるということやね。
仕事を任せるということは、部下を育てるということになる。
仕事の完成と新しい仕事の創造と、そして人材育成と、その三つの意味において責任者というわけやな。
権威を保つ
ところでいま、権限の委譲ということを言うたけどな、仕事を任せるということやな。
それは大事だと。
けど権限を委譲しても、権威は委譲したらあかん。
それがなかなか難しい。
仕事を部下に任せると、それでどうするかというと、時間もできる、偉くなったような気分にもなる。
本当はさっきも言ったようにそんなひまもないし、そういう気分になることもないのやけど、そこが人間や。
部下が仕事をやっておるにもかかわらず、付き合いだと言ってゴルフに出かけたり、交際費は節約しろと言いながら、自分は夜ごと会社の金で飲み歩く。
遅刻したらあかんと言いながら、自分は遅れてくる。
約束は守れと言いながら、自分は守らない。
そういうことをすると、責任者として権威はなくなるんや。
権威というのは人間としてなすべきことをなす、なすべからざることはやらんと。
そこに権威というものが生まれてくるんや。
全体の仕事を仕上げたか、新しい仕事を創り出したか、部下を育てる努力をしているか、三つの責任を感じながらそういうことを、キチッとしておれば、部下のほうも仕事を任せられて満足しつつ、責任者に心から敬意を表しながら、まあ、尊敬しながら努力して向上していく。
そういうことをやらんと、だんだんと部下から軽く見られるようになって、いつの間にやら逆になってしまうな。
特に経営者は、そういうことを、よく心がけんといかん。
部下は必ず大将のまねを、みんなするようになる。
うちの社員は仕事をせんとか、出来が悪いとか言う経営者がおるけど、結局は経営者自身が権威を維持しておるか、人間としてなすべきことをなしておるかどうかということに尽きるな。
部下はその本質をほめて育てる
部下はな、ほめんといかんで。
ほめて育てるということを考えておかんといかんよ。
人間は誰でもいいところと悪いところを持っておるもんや。
きみでもわしでも、そのふたつを持っておる。
けど、大事なことはいい面を見て、そのいい面を指摘して伸ばすようにすることやな。
悪い面を見て、その悪い面を指摘して少なくするようにさせるのは、あまり効果はないな、わしの経験から。
少しほめるべきところがあれば、それをおおいにほめる。
多少評価すべきところがあれば、評価する。
そういうことが大事やね。
人間はいやなことを言われて、向上しようとする人は少ない。
いいところをほめられたら、よし、がんばろうと努力する。
それが人情やな。
山本五十六という人が、「してみせて、言って聞かせてさせてみて、ほめてやらねばひとは動かじ」と言ったそうやが、その通りやね。
けどな、この、ほめる、ということを、よう考えておかんと間違えるわけや。
この、ほめるということは、叱らんと、相手に注意もせん、言うべきことも言わんということではないんやな。
それはどういうことかというとね、ほめるというときに相手の、たとえば部下やね、部下の人の、その本質をどう評価しておるかどうかということや。
その人の本質をまったく評価しておらん、これはどうにもならんやつだと考えて、でもほめんといかんということで、ほめると。
しかし、これはほめるということにはならんわな。
根底のところで、こいつはあほやなあと思いながら、口ではほめるとしても、これではわしの言う、ほめるということにはならん。
けどな、本質的に相手の能力を認めておる、高く評価しておる。
しかし、この人のために、この部下の持っておる能力を引き出してあげるために、叱ってあげよう、注意をしてあげようということになれば、これは叱るということではないわね。
人間というのは誰でも相当大きな力というか、能力を持っておるもんや。
見た限りでは、たいしたことないと思われる人でも、その実、たいへんな力を持っておるんや。
いまは見えんけれど、現れておらんけれど、そういう能力を持っておるんやな。
そういうことを、よう考えたうえで、部下を見んといかんわな。
この人はわしよりもええ面を持っておる、相当な力を持っておる人や、といつもそう思ってわしは部下の人と接してきた。
まあ、きみも、偉大な力を持っておるんやね、いまは現れておらんかもしれんが。
ほめるということ、叱るということは、そういう意味やね。
ところが実際にはそうではないわけや。
ほめるということを、口だけでやっておる。
それで、ほめても部下は育ちませんという。
当たり前やわな。
本質的にほめておらん。
にもかかわらず、口だけではほめると。
それで部下が育つということはないわな。
そういう考えで、部下を口だけでほめておると、部下もだんだんとこの上司は口だけで、本当に自分を評価しておるんではないということが分かってくる。
だから、部下は育たんばかりか、その上司を信用せんようになったり、反抗的になったりする。
まあ、逆効果やね。
けど本質的に評価しておれば、叱っても、注意をしても部下は、うん、そうや、自分が悪かった、と素直に反省できるし、みずから向上しようと努力するようになる。
そればかりか、叱ってもらってありがたい、ということにもなる。
叱って、かえって喜ばれる。
そういうことをな、部下を育てるときに、きみ、よう考えておかんとあかんよ。