皆様こんにちは、『ぼっちシニアの幸せ探し貯金日記』の管理人"くるぴた"です。
【前回】中学生の私に「濃いメイク」をして連れ回す母。「友達親子」を期待されていた?
最初の結婚に失敗し、二度目の結婚もあまり幸せとは言えなかった母。
結婚に失敗したあと、そのまま一人ぼっちの私。
親が離婚していると、その子どもも離婚しやすいという話をたまに聞くことがあります。
もちろん世間には、そうではない方も大勢いらっしゃいますが、私の場合はその説をそのまんま体現してしまった形です。
自分としては両親の姿を見て、自分は絶対に失敗しないようにしようと堅く心に誓っていたのですが......
結局、失敗してしまいました。
どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
思うに、やはり家庭環境と心の持ち方が原因になっているような気がします。
母は戦中生まれの戦後育ち。
6人姉妹の末っ子として、この世に生を受けました。
本来は9人兄弟だったのですが、戦時中のことで、3人は幼くして亡くなったと聞いています。
母の父、私からみて母方の祖父は、母が4歳のときに川に落ちて亡くなっており、貧しい生活を余儀なくされたようです。
そして母は小学5年生の頃に、青果店の夫婦に養女に出されました。
どちらかというと子どもが欲しいからというより、人手が欲しいからという縁組で、母曰く「冷飯を食わされた」生活だったようです。
そこで一年ほど暮らしましたが、義両親が母を置いて夜逃げしたため、母は結局実家に戻ったという経緯があります。
実家に戻った後も、あまり家族とは打ち解けられなかった、という話をしばしば聞かされました。
察するに、母自身が『幸せな家庭』というものを知らず、どんな相手と一緒になれば幸せになれるのか、分からなかったのでしょう。
最初の結婚では実家の反対を押し切って、19歳の時に勤め先の取引先の男性と一緒になりました。
しかしその夫は職を転々とし、「飲む・打つ・買う」の三拍子で母の嫁入り道具を質に入れたり、嫁姑問題で姑の味方ばかりしたりで、破局したと話していました。
その結果、母は実家に戻ったのですが、昭和三十年代は『出戻り』という立場に、世間の風当たりが強かったそうです。
養女から帰ってきた時には、実家の家族も負い目があり、まだ多少は気遣う姿勢も見せていました。
でも、反対を押し切って結婚したのに戻ってきた母に対しては、辛く当たったようです。
その後、母は父と出会って再婚します。
正直言って子どもの私から見ても、父は外面だけの人で、金遣いが荒く家庭を顧みませんでした。
「何であんな人と結婚したの?」
可愛げのない子どもだった私が、そんな疑問をストレートぶつけるたび、母は「お前には分からんわ」としか答えませんでした。
ですが、自分も結婚に失敗した今なら、母の立場や感覚がよく分かります。
母と私の共通しているところは、育った家庭が不幸だったこと。
そして結婚を『逃げ道』にした部分が、多少なりともあったところ。
自分が置かれた境遇が辛く、そこから逃げ出せば何とかなると思っていたのです。
私もあまり家にいて『ごく普通の幸福』を感じない出来事が多かったので、「とにかく家を出たい」という気持ちだけが先走っていました。
家を出て、都会に出て働いて生活し、気が付けば30代も後半......いえ、終盤。
孤独を感じるようになり、遅まきながら結婚を考えた頃に出会った前夫と結婚しました。
すでに若さもなく疲れていた私は、父親とは違うタイプの、結婚したら不幸になる相手を選んでしまったのです。
父親のような人でなければ、何とかなるはず。
結婚すれば変わるはず。
そんなことを考えていました。
結婚前の相手の言動に疑問が浮かぶようなことが起こったとき、その事実を洗い出して、本当に結婚して大丈夫なのか、一緒に生活して大丈夫なのかを深く追求せずに、ただ不安に蓋をした。
母との共通項は、そういうところです。
結婚しようと思う相手に疑わしい部分があったら、信用できる人に相談すれば良かったと今では思っています。
信用できる人がいなくても、ネットなどで自分ではなく知人の話だと前置きしたりして相談すると、だいたい忌憚のない意見が返ってくるはず。
不安を抱えたまま、闇雲に前に進むのだけは止めた方がいいでしょう。
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