<この体験記を書いた人>
ペンネーム:濃姫
性別:女性
年齢:45
プロフィール:夫(47歳)、娘(19歳)、息子(14歳)の4人家族。義父(72歳)と義母(69歳)と半同居。
私は2人兄妹の末っ子で、兄(51歳)は6歳年齢が離れているため、父(享年77歳)と母(75歳)はもちろんですが、兄からも大切にされて育ちました。
特に父が過保護だったため、門限も高校生までは夜7時、友人の家に泊りに行くのもダメ(我が家に泊りに来るのはOK)など、思春期の頃は疎ましく感じていたものです。
大学生になると門限は9時になり、少し緩くはなりましたが、友人たちの親に比べると「私の親はなんて頭の固い人間なんだろう」と思っていました。
若い頃の私は窮屈さの反動で、アメリカに憧れ、音楽は洋楽、映画は洋画と「アメリカかぶれ女子」でした。
しかし、海外旅行なんて許してもらえるわけがなく、アメリカへの憧れは募るばかり...そこで思いついたのが「留学」でした。
勉強という名目があれば両親も許してくれるだろうと考え、留学制度がある大学を選び通うことにしたのです。
1997年、大学2年生になり両親には内緒で大学に留学希望を出してテストに合格。
準備万端にしてから両親に話をしました。
内心、ここまで準備を整えたのだから大丈夫だろうと思っていた私ですが、両親の反応はある意味「予想通り」でした...。
「いくら勉強といっても親元を離れてアメリカなんてとんでもない! 英語なら日本でも十分勉強できるのだからダメです」
詳しい話さえも聞いてもらえませんでした。
それでも諦めきれず何度も何度も説得を試みましたが、両親の気持ちを動かすことができずにいました。
申し込み期限がせまり、両親に最後のお願いと挑んだときです。
両親と私のやりとりを黙ってずっと見ていた母方の祖母(当時78歳)が、父と母に向かってこう言ってくれました。
「〇〇は2人の最愛の子で、大切に育ててきたことは分かるけれど、この子の人生はこの子のもの。あなたたちの人生ではないのよ。〇〇を愛しているならば、〇〇が良い人生だったと思えるような人生を送らせてあげなさい」
この祖母の言葉で、鋼鉄のごとく固かった両親の心が動き、いろんな制約と条件は付きましたが、留学を許してくれました。
「おばあちゃんはね、大学へ行って勉強をしたかったけれど、戦争や当時の時代のせいで叶えることができなかったの。それはこの年齢になっても心残りでね。だから〇〇にはこんな心残りをするような人生は送ってほしくなくってね」
お礼を言った後、過去のことを話してくれた祖母。
自分のようにつらい思いをさせたくなくて、私を後押ししてくれたんだと胸が熱くなりました。
当時の私も祖母の言葉に感動しましたが、2人の子どもの親となった今、当時とは違う重みを感じています。
あの言葉を心にとどめて、子どもたちと向き合い子育てをしています。
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