<この体験記を書いた人>
ペンネーム:くあら
性別:女
年齢:54
プロフィール:アフターコロナを楽しく生きていきたい50代。
明治生まれの父方の祖父は、私が大学生のときに亡くなりました。
祖父母とは同居しており、両親は共働きでした。
祖父は元々腕の良い大工でしたが、私が知っているのは引退し、隠居している祖父の姿です。
手先が器用なので、家の中の細々としたものを使いやすくするために作ったり直したりと、引退後も何かしら動き働いている祖父でした。
そんな祖父のそばでままごと遊びをしたり絵を描いたりして過ごしていたのが、幼少期の思い出です。
祖父は体の丈夫な人で、病院通いもほとんどしていませんでした。
その日もいつものように「行って来ます」と声をかけ「行ってらっしゃい」と答えてくれた祖父でした。
家に戻ると、玄関に黒白の鯨幕が張り巡らされていた光景は今でもはっきりと目に浮かびます。
携帯電話もなかった時代、連絡を取ろうにも取りようがなく、家に入って初めて祖父の死を知らされたのです。
特にどこが悪かったわけではないのに突然倒れたらしく、あっという間の出来事だったようです。
昨夜も朝も普通に元気だった祖父とのあまりにも急なお別れに、大学生だった私は頭がついて行かず、寂しいのか悲しいのか、呆然としてその後の数日を過ごしていました。
四十九日が過ぎ、日常を取り戻した頃、ふと祖父のことを考えたとき、それまで忘れていた祖父との会話を思い出しました。
何かのタイミングで祖父と二人になった昼下がり、お茶を入れて向かい合いました。
「〇〇(私のこと)はいくつになったんかなあ」
「え、19歳だよ」
「ほお、もう19歳かあ」
そんな会話から始まり、訥々と問わず語りに祖父が話し始めました。
「まだ幼稚園に入る前、毎日じいちゃんの胡座の中に座って一人で遊んでたなあ。大人しい手のかからない子だったけど、一度だけなぜか癇癪を起こして、持っていたえんぴつでじいちゃんの腕を刺したなあ」
えっ、そんなことしたっけ? と思いましたが、祖父の話は続きます。
「お母さんも働いていて寂しかっただろうに、泣き言も言わず一日中お利口にしてたから、逆に心配しておったよ。たまには駄々をこねたほうが良いんじゃないかと。だから、ちょっと安心したんだよ」
「痛かったんじゃないの?」
「いやあ、みっつよっつの子どもがすることだから、大したことじゃなかった。でも、〇〇はじいちゃんにすごくひどいことをしたと思ったのか、そのあと2日か3日は遠慮して胡座の中に自分から座って来なかったな。じいちゃんがおいで、とここ(胡座)を指さすと申し訳なさそうに座って来たときの顔がかわいいて、昨日のことのようだ」
私は全然覚えていない出来事でした。
それに一日中祖父のそばで遊んでいたので、母がいなくて寂しいと思ったこともありませんでした。
ただ、無口な祖父とは成長しても会話らしい会話をした覚えがなく、祖父がそんな昔話をしたこともなかったので、なんとなく不思議に感じました。
ましてやその数日後に亡くなるなど、そのときの私は1ミリも考えていなかったのですから。
いつも陽だまりのように安心させてくれていた祖父。
何もしゃべらなくても、何もしなくても、祖父がそこにいてくれただけで良かったあの頃。
少しずつ大人になって祖父の胡座にも座らなくなったけれど、いつまでもずっとそこにいてくれるものだと思っていた人もいなくなるのだと知った19歳の私だったのでした。
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