10年経っても忘れない...3.11東日本大震災直後、父の安否を確認する為に自転車を漕いだ3時間

<この体験記を書いた人>

ペンネーム:youhei514
性別:男
年齢:41
プロフィール:結婚11年目の会社員です。妻40歳、娘9歳、息子6歳の4人家族で、ごく平凡な家庭環境です。

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2011年の東日本大震災から約10年が経ち、ニュースで流れる当時の映像を見る度に、あの時に感じた焦り、不安、葛藤などの様々な思いが蘇ってきます。

当時31歳の私は埼玉県の南中央部で仕事をしておりました。

県内南東部の自宅からは電車、自転車を利用して約1時間15分程の通勤時間でした。

3月になって繁忙期もやっと落ち着き、少し気が緩みながらも任された仕事はそれなりにきちんとこなしていくような、いつもと変わらない日常のはずでした。

2011年3月11日14時46分。

経験した誰しもの心に強く、深く刻まれることとなる大地震が発生しました。

誰かの号令によりひとまず机の下の身を隠し、揺れが弱まったところで外に避難、皆で一か所に固まって震えながらやり過ごしました。

後の発表では震度6。

今までに経験したことの無い揺れが数分おきに続くことへの恐怖と不安で、泣き出す人も何人かいました。

幸いなことに、私の会社では大きな倒壊や怪我人の発生はなく、時間が経つにつれて少しずつ落ち着きを取り戻しました。

その後に心配になるのは家族や友人の安否です。

ですが、連絡を取りたくても携帯電話はほとんど繋がらず、不安だけが増していきました。

しばらく時間が経った後に、何とか妻や友人の無事を確認することが出来て、少し安心することが出来たのですが、私の父(当時66歳)だけは電話が繋がっても出ません。

妻にもお願いして電話を掛け続けてもらっているのですが、やはり何度掛けても出ません。

そして日が暮れて辺りが暗くなってきた頃、電車が動いていない事もあり、周りの人は社内で夜を明かすことになりました。

私も身の安全を考えてそうしようとしましたが、父の安否が気になって仕方がありません。

妻は実家に帰省中だった為、誰も居ない家の様子も気になります。

父の家までは私の自宅から10分くらいの距離です。

そして夜6時ごろ。

3月にしては珍しく、気温が10℃にも満たない真冬並みの寒さの中、意を決して父宅まで自転車で行くことを決意しました。

漕ぎ始めてすぐに愕然としたのが、街灯はおろか信号までがすべて消えていること。

まるでゴーストタウンの中を彷徨っているような錯覚を起こしました。

車のヘッドライトを頼りに恐る恐る漕ぎ続け、1時間過ぎたころには疲労と腰、背中、お尻の痛みが現れ始めました。

どんなに漕いでも、とある地名を抜けることが出来ず、先が見えない不安と恐怖により心が折れそうにもなりました。

そんな自分を奮い立たせるために目標としたのがこの2つです。

「絶対に父の安全を確認する!」

「自分へのご褒美として美味しいラーメンを食べる!」

これを頭の中で何度も繰り返して必死に漕ぎ続け、2時間半くらい経過した時に自宅の隣の市に到達しました。

先が見えたことで気力がよみがえり、漕ぐ足に力が増してきたところで妻から着信がありました。

「お父さんと連絡が取れた! 身体も家も無事だったみたいだよ。良かったね!」

心の底からホッとしました。

父宅に到着し、後から聞いた話では、駅で買い物している時に地震が発生したが、特に気にすることもなく帰宅して昼寝をしていたそうです。

その昔、阪神淡路大震災を大阪で経験した父にとっては、それ程の衝撃ではなかったそうです。

それにしても昼寝って...その後の私は散々でした。

ラーメン屋は一軒も営業しておらず(当たり前ですが)、家の中はイノシシが大暴れしたような有様でした。

帰宅に3時間、家の片付けに2時間を要し、0時過ぎにヘトヘトになってからやっと夜ごはんにしました。

あの時に食べたカップそばの温かみは生涯忘れることは無いでしょう。

もう二度と、誰もあんな恐怖を味わうことが無いように心から祈っております。

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