定年後に母の介護をしながらパソコンを始め、2016年からはアプリの開発を開始。17年に米国アップルによる世界開発者会議「WWDC 2017」に特別招待され、現在、岸田首相主催のデジタル田園都市国家構想実現会議構成員としても活躍中の若宮正子さんに「幸せ」についてうかがいました。
これは私の娘時代の話です。
ある日、PTAへ行くことになった母が、「着ていくものがない」と父に訴えました。
すると父は母を一瞥(いちべつ)して、「そんなことないだろう、着てるじゃないか」と飄々(ひょうひょう)と答えたのです。
この様子を端で見ていた私は、まるで漫才みたいだと、思わず噴き出してしまいました。
母が人目を意識して「普段着では行けない」と主張したのに対して、父は「裸でなければ笑われることはないだろう」と考えたわけです。
これは価値観の問題。
どちらが正しいとは言えませんが、私は人目を気にしない派なので、母の主張に少々違和感を覚えました。
誰もお母さんのことなんて見ていないんじゃない?と。
ところが後年、この話をいろいろな人にしたところ、多くの女性が「普段着じゃ行けないわよ、悪目立ちしてしまうもの」とか、「けっこう人って他人のこと見てるのよ」と母の主張に寄り添うのです。
興味深かったのは「私だって人のこと見ているもの」という意見。
なるほど私は自分が人の身なりを見ていないから、誰もがそうだと考えて人目が気にならないのか、と気付きました。
同時に母は自己顕示欲が強いのではなく、TPOをわきまえていたのだと理解することができたのです。
でも人に羨ましがられたいという虚栄心に支配されている人がいたとしたら、一瞬は気が晴れても結果的には疲れてしまうだろうと思うのです。
だって所詮、独り相撲なのですから。
人は人のことを見ているといっても、表面的なところしか見ていないのではないでしょうか。
例えば私は「若宮さんみたいに幸せな人生を送りたいです」と声をかけていただくことがあります。
そう言われればうれしいけれど、私の人生にも山もあれば谷もあるというのが正直なところなのです。
そもそも自分が幸せかどうかなんて考えたこともない...と思っていたところ、たまたま読んだ雑誌の記事に「幸せな人は、自分が幸せかどうかなんて考えない」と書いてあってドキッとしました。
私が幸せなのだとしたら、誰かと自分を比べていないからでしょう。
そもそも幸せって漠然としていて実体がないのです。
多くの人が「幸せになりたい」と言うけれど、幸せというのは、なるものではなくてジンワリと感じるものだという気がします。
いずれにしても、365日ずっと幸せな人生なんてありません。
人生にはいろいろな季節があるのです。
どんな季節も避けては通れないのなら、いっそ味わい尽くすと決めるのが得策なのではないでしょうか。
例えば私は耳が聞こえづらくなって補聴器をしていますが、年を取るというのはこういうことかと、自分の変化を面白がっています。
年を取れば不便なことは増えますが、だからといって「老いるのは嫌だ」とナーバスに捉えるなんて、沈む夕陽に待ったをかけているようなもの。
つまり野暮だと言いたいのです。
だって夕陽が空を橙色に染めて沈んでいく様は、うっとりするほど美しいではありませんか。
ですから私は、どんなに老いを感じても、自分はいま、人生の中でもっとも美しいシーンにいるのだと、心を喜ばせながら生きていたいと思うのです。
こんなふうに幸せを感じていると、人の幸せも手放しで喜ぶことができます。
逆説的に言えば、人の幸せを喜べる人が一番幸せ。
ならば自分が幸せそうに見えるかどうかより、毎日の中で自分が幸せだなと感じることに集中した方がいいというのが私の考えです。
「自分は自分、人は人」としっかりと心に刻み、その日にあった「いいこと」を数えて暮らす。
それだけで、誰だって幸せを感じることができると私は確信しています。
イラスト/樋口たつ乃