会ったことない謎の人物から届くライブのダメ出し「いや、その前に誰⁉」/凛として時雨 TK『ゆれる』

何度か食事や打ち合わせなどの段階を踏み、ドラムの脱退や中野君のサポート加入を経た頃、新宿のとあるイタリアンに呼ばれた。  

荷物が擦れるほど狭い階段を上がって、席につくなり、僕の記憶が間違っていなければ「どうしたいの?」と聞かれた。「いや、誘われたのにいきなり質問......?」と心の中のリトルTKは囁いたものの、僕は「CDを出したいです」と即答した。『スラムダンク』さながらのやり取りに、緊張感がほぐれることなく食事を終えた。満腹の後に誘われた熊本ラーメンの味はほとんど覚えていない。  

百瀬さんが社長を務める事務所「ムーヴィング・オン」に正式に所属する前、社長は僕にCD制作のノウハウを事細かに教えてくれた。ただし「ノウハウは貸してあげるけど、原盤(CDの制作に必要な録音費)のお金は出さない」という条件付きだった。それはつまり、「自分たちでお金を持ち寄って録音をして、自分たちでリスクを背負ってCDを売りなさい。そこに必要な知識は教えてあげるよ」ということだった。  

無知だった僕は、長年の経験のある社長からすると、あまりにも浅はかな若造だっただろう。社長はこの頃のことを「闘魂塾」と言うが、当時の話をすることをあまり好まない。なので僕はこの本が社長に読まれないことを祈っている。  

さまざまな物事への向き合い方や精神論を厳しく叩き込まれた。決まって僕だけが呼ばれる「闘魂塾」の中で、僕は自分自身の思いとそれを常に照らし合わせていた気がする。無知で未知な中でも、与えられた情報をどう噛み砕くかで、自分の人生をどのようなものにできるかが変わってくる気がしていた。

「CDを出せる」という鮮やかな人参を目の前にぶらさげられた僕は、ひたすら前だけを見て走っていた。  

ただし、僕たちだってお金があるわけではない。レコーディングは中野君の住む街に程近い公民館や、僕の働いているスタジオで行った。  

録音はなんとか見よう見まねで終えたものの、その音の素材を混ぜてCDにするまでの「ミックス」という段階でつまずく。前身のバンドでは簡易的なMTRという機械で混ぜたことがあっても、今回はインディーズの流通に乗せる作品で、さすがにそれはないだろうと思っていた。言うなれば、僕たちの演奏を録った段階は、料理に必要な野菜やお肉を買ってきた状態。それをどうやって切る、炒める、味をつけて料理をするのかが分からなかった。カップラーメンだけは作ったことがある、のような状態に限りなく近い。  

途方に暮れていた僕に、お世話になっているライブハウスの人が「最近ソニーで働き出したアシスタントの人がミックスする素材を探してるから、無料でやってくれるかも」という話を持ちかけてくれた。ミックスはとにかく数をこなして経験値を稼ぎたいという、そのアシスタントの方が担当してくれることになった。深夜の乃木坂ソニースタジオに忍び込み、何度も意見を交わし、ミックス作業を重ねていった。  

しかし、完成が迫った納品直前、そのエンジニアの方と突然連絡が取れなくなってしまう。

緊急の連絡というのは、なぜかコール音が静寂の中で焦って聞こえる。繫げてくれた知人から変な時間に電話が鳴り、「彼がバイクで事故って生死の縁をさまよっている。作業中のミックスのデータを抜き出すことも難しい」と告げられる。呆然とする間もなく、僕は自分自身で完成させるほかないことを悟った。  

あまりにも知識のない状態での料理だ。クックパッドも料理本もない。それでも、何もない僕が成し遂げるにはあまりにも荷が重いその料理は、「ファーストアルバム」という形で産み落とされた。

デビューアルバムには、初めて曲に触れる瞬間が詰まっている。そして、初めて音を作り上げる瞬間もそこに詰まっている。そうやって、すべてを自分たちだけで完成させたのがファーストアルバム『#4』だった。  

本来であれば、その初々しさが今の自分からは痛く感じてしまいそうなものだが、生々しい傷痕が、今でも超えられない輝きとして残せたことに誇りを持っている。  

リリースして少し経った後、エンジニアさんの無事が伝えられ、安心した。数年の時を経てレーベルスタッフに転職したその方と、僕たちがメジャーデビューをするソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズで再会することになるなんて、思ってもいなかった。  

そしてあの頃忍び込んでいたソニーのスタジオには、今はちゃんとしたブッキングを経てレコーディングに行っている。いつ行ってもあの頃の面影を感じる、特別な思いを持ってレコーディングに挑める場所だ。  

ファーストアルバムが少しだけアンダーグラウンドの中で認知された後、ムーヴィング・オンに正式に所属をした僕たち。2008年にメジャーデビューをするまで、社長からは制作のことだけでなく、僕に必要なこの世界での生き方の指針のようなものを数多く教えていただいた。  

この20年、何度お叱りを受けたかは分からないが、あのときに出会い、僕に可能性を感じてくれたことが、今のすべてに繫がっている。  

導かれたのではなく、「自分で創れ」という教えが今も自分を切り拓いている。その恩義は、これからも音楽と共にある。

 
※この記事は『ゆれる』(TK (著)/KADOKAWA)からの抜粋です。

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