ハイトーンボイスと変幻自在な曲展開が印象的なスリーピースロックバンド、「凛として時雨」のボーカル&ギターであり、作詞作曲も行うTKのソロ活動名義「TK from 凛として時雨」。唯一無二のサウンドの紡ぎ手であるTKが、「揺れにゆれ」ながら、自らの言葉で彼らの辿った道筋を書き下ろした初のエッセイ。
音楽の道へと進み始めたあの頃、母親の反対、メンバーとの出会い、無我夢中だったインディーズ時代、そして、メジャーデビュー...TKの音楽にとってなくてはならないものとの巡り合わせとは?
現在、人気アニメの主題歌なども手掛けるTKの独創的な世界観の軌跡を垣間見ることのできるTK著のエッセイ『ゆれる』(KADOKAWA)より厳選してお届けします。
『ゆれる』(TK/KADOKAWA)
君がいない
僕は「歌うことが好き」という感覚がよく分からない。それと相反して、青春時代に歌った記憶は少なくない。あの頃の僕は、何を思い、なんのために歌っていたのか。
両親はJ‒POPが好きで、家族で出かけるときの車中では、往年のフォークからサザンオールスターズ、山下達郎さんなどの曲がカセットデッキから流れていた。紛れもなくそんな両親の影響を受け、僕もJ‒POPが好きになっていた。
小学生時代、僕たち家族は、なぜか毎週のようにカラオケに行っていた。言いだしっぺは父親だっただろうか。幹線道路沿いで一際目立つカラオケ店に家族で向かっている車中、父親は既にサザンを口ずさんでいた。
派手な柄の壁紙に囲まれた小さな部屋の中で、僕はサザンの「逢いたくなった時に君はここにいない」や、山下達郎さんの「クリスマス・イブ」をたびたび歌った。父親は僕の歌を邪魔しないよう小さな歌声で旋律に乗り、時にマイクを持ち一緒に歌った。母親と姉は歌本をペラペラとめくりながら、宝探しをするように歌うべき一曲を選んでいた。家族4人でマイクの奪い合いでもしていたはずはないのだけど、なぜだか僕たちはいつも、入店時に伝えた2時間を延長する羽目になっていた。
中学生の頃には、猿岩石の「白い雲のように」を歌い、カセットテープに多重録音したこともある。そして僕はどういうつもりか、姉にそれを聴かせた。
なぜ猿岩石をピックアップしたのか、どうして姉に聴かせたのか、すべてが謎だらけ。だけど、その理由を覚えていない割に、そのとき録音した昼下がりのことをよく思い出す。なぜか部屋の一部が繫がっていた僕と姉の部屋で、その通路を塞ぐように置いてある本棚に置いたコンポに、カラオケ用の安いマイクを繫げて歌った。
重ねることが楽しかったのか、歌うことへの興味を持っていたのかは分からないが、「歌」は息をするように自然な行為として、徐々に僕の体に組み込まれていった。
カセットからカセットへとダビングをして、自分の声でコーラスを重ねる快感をうっすらと感じた。「ああ、いいんじゃない?」という、姉の素っ気ない感想が気にならないほどの妙な満足感を得たことをよく覚えている。マイクでの録音もダビングも難なくこなすaiwaのコンポは、相棒として無敵だった。
あるとき、母親から親戚の結婚式で歌を披露してほしいと頼まれた。
ここまでで、僕はだいぶ歌うことが好きなように見えていたかもしれないが、家族以外の誰かの前で歌うことには抵抗を感じていた。友達とカラオケに行ったことなど人生で数えるほどしかないし(中学のときに友達がMetallicaの「Battery」を歌うのに付き合った記憶だけがある)、音楽の授業では、クラスみんなの前で歌う人を選考するテストで、必要以上に下手に歌って選ばれないようにしたこともある。取り立てて上手いわけでもない僕は、余程人前で歌いたくないという意識が強く働いていたようにも思う。
そんな僕が母親の依頼に素直に従ったとは思えないが、いずれにせよ、米米CLUBの「君がいるだけで」を歌うことに決まり、僕は練習を始めた。部屋でカセットテープを聴きながら、歌詞を暗記するまで歌い続ける。家族と行ったカラオケでももれなく何度も歌った。
しかし結婚式当日、式場には「君がいるだけで」のカラオケ音源がなかった。今のように通信カラオケもそれほど普及していなかったあの頃。「ちょっと待ってくれ、さすがにそれは確認しておいてくれよ」と子どもながらに思ったのは覚えている。
「他の曲でもいいじゃない」
母親はそう言ったが、僕は拒んだ。なんでも歌えるわけでもないからこそ、しっかりと準備したものを出したいという気持ちは、あの頃からあったのだろう。
「練習していない曲を歌えない」
結局、僕が幸せの真っただ中にいる2人に、祝いの歌を届けることはできなかった。
そして当の僕は、大きな喪失感に包まれていた。
「君がいるだけで? 曲目リストに君はいなかった......」
心の中では、サザンの「逢いたくなった時に君はここにいない」を歌いたい気持ちだった。
僕にとって「歌うこと」とは。
正直なところ、今に至るまで考えたことがないし、分かったこともない。ギターは好きで始めたけれど、まさか将来、自分がそのギターと共にボーカルをやるなんてことは思ってもいなかった。
好きなものと、それを人に聴かせるという切っても切れない関係が、僕の中で音を立てて形成されていく。
遥か昔、学生の頃に付き合っていた女の子が、僕のために作ってくれた料理を、彼女自らゴミ箱に捨て、「ファミレスに行こう!」と言いだしたことがあった。一瞬何があったのか分からなかったが、対象の誰かができることによって、それは大小関わらず「作品」になってしまうのかもしれない。今となっては、中途半端なものを捨ててしまう、その気持ちがよく分かる。
どこかの瞬間で、僕もそのスイッチがONになってしまっている。一人だったら楽しく歌えていた歌も、そこに聴かせる誰かが存在してしまうと、聴かせるべき歌かどうかという『ドラゴンボール』のスカウターみたいなものが発動してしまう。
自分の中にいつしかできたボーダーラインが、人に提供することを拒む。それは、僕の音楽人生においてとても大きな壁を作っているけれど、その思考があるからこそ今の音楽が生み出される愛すべき厄介なものだ。誰にも共感されないこともあるし、痛いほど分かってくれる人もいるが、大方「ややこしい人だ」で済まされる。創作における理想への道は孤独だ。
あの日、結婚式で歌えなかったことに対する虚しさが、いまだに僕の心に刻まれている。まだ幼い自分の中に生まれた「届けない」という選択肢が、誰よりも「届けたい」と強く願う僕の音楽に、今なお鋭利でいびつな光を与えてくれていると信じている。