超高齢社会の日本では「介護」は誰にとっても他人事ではありません。でも「介護施設」はどんなところかわからず、不安に思う人も多いと思います。そこで、医師として長年医療現場に従事し、現在は介護施設長として働く川村隆枝さんの著書『70歳の新人施設長が見た 介護施設で本当にあったとても素敵な話』(アスコム)より、介護士と入所者との間に起こった、泣ける、笑えるエピソードをご紹介します。
介護スタッフは芸人揃い
六月某日、老健たきざわのデイルーム(娯楽室)に、威勢のいいアナウンスが流れてきました。
「六月のお誕生会の余興は、『チャグチャグ馬コ』の見学で~す!」
『チャグチャグ馬コ』は、毎年六月の第二土曜日に行われている盛岡の伝統行事。
色とりどりの装束をまとった一〇〇頭ほどの農耕馬が、馬の守り神とされる岩手県滝沢市の鬼越蒼前(おにこしそうぜん)神社から盛岡市の盛岡八幡宮まで、約一四キロを〝チャグチャグ〟と鈴の音を響かせながら練り歩いていきます。
「でも、残念ながら、新型コロナの影響で中止になりました」続けてアナウンスされた「新型コロナ」「中止」の言葉に、デイルームに集まっていた入所者から、何とも言えない溜め息が漏れました。
私も楽しみにしていましたが、状況を考えると、中止は仕方がありません。
例年、『チャグチャグ馬コ』には、県内外から一〇万人前後が訪れます。
コロナ禍で密閉・密集・密接の三密を避けなければならないときに、そんな大規模イベントを開催できるわけがありませんから。
しかし、外を練り歩くパレードは中止になっても、それで終わりにしないのが、老健たきざわのスタッフたちです。
しばらくすると、再びアナウンスが流れてきました。
「通りのパレードが中止になったので、ここに呼んでみましょう!」
デイルームがざわつき始めたところで、『チャグチャグ馬コ』のにぎやかな民謡が流れ始め、五頭の馬がデイルームに入ってきました。
本物の馬ではなく、介護スタッフが演じる被り物の馬?です。
コミカルな動きでデイルームに集まった入所者の間を練り歩き、ときに手作りの糞を落とす。
入所者たちは大笑い。
「よー来た! ここで見れてよかった」
「馬コの頭をなでなでしたい!」
「馬コと一緒に写真を撮りたい!」
入所者はそれぞれに目を輝かせ、無邪気に喜んでいます。
介護スタッフが演じる馬と一緒におどけた調子で練り歩く人もいて、「糞が落ちた!」と掃除用具を持って来たときは、爆笑の渦。
『チャグチャグ馬コ』は、私も楽しみにしていた行事です。
『チャグチャグ馬コがぁ、ものゆうた。じゃじゃもいねがら、おへれぇんせ(馬が言うことには、母親もいないから入っておいで)』
今は亡き夫・圭一が『チャグチャグ馬コ』を見ながら、ほろ酔い加減でいつも口ずさんでいたのを思い出します。
歌う度に「これは親がいない隙に恋人を家に呼んで、イチャイチャしようと誘う唄なんだよ」と楽しそうに教えてくれました。
年中行事というのは、その人だけの大切な想い出を鮮やかに蘇らせてくれます。
しかも、老健たきざわの芸達者な介護スタッフは、入所者を楽しませてくれます。
次のお誕生会は七月。
目玉は、毎年八月上旬に行われている岩手県の夏祭り『盛岡さんさ踊り』。
しかし、これも新型コロナの影響で中止になりました。
ただ、感染対策をすれば、施設内で踊ることはできるはずです。
お誕生会は季節に応じて、『チャグチャグ馬コ』『盛岡さんさ踊り』といったご当地ものからクリスマスにはサンタクロースがやって来て、お正月は餅つきを楽しみます。
場合によっては、手品や二人羽織、寸劇といった介護スタッフの企画力で盛り上げることもあります。
介護の仕事は、入所者の健康や暮らしをサポートするだけでも相当ハード。
それでも彼らは、行事を開催する度に、本気で入所者を喜ばせようとします。
それも介護のひとつだと考えているからでしょう。
介護スタッフは芸達者。
老健たきざわに来てはじめて知ったことでした。
介護施設は姥捨て山ではなく、楽園
私は、新人施設長として、桑原美幸師長に初めて入所者の部屋を案内されたとき、軽いショックを覚えました。
寝たきりの高齢者ばかりが目に入ったからです。
「現代の姨捨山(うばすてやま:家族の生活を考えて、働けなくなった親を口減らしとして山に置き去りしていたという民話)なのか?」とさえ思いました。
しかし、一年以上経った今、その思いは消え去りました。
むしろ、介護施設は入所者にとって楽園ではないかと思っています。
家族と離れて暮らす寂しさはあるかもしれませんが、プロの介護スタッフによって手厚いサポートを受けながら日々を送れるからです。
ただ、一般的には介護施設に預ける側の家族は、罪悪感を抱いています。
預けられる側の入所者も、介護施設に入るのは、家族に見捨てられたと悲観的になる方が多いといいます。
はっきり言いますが、それは誤った考えです。
想像してください。
もし、全介助または一部介助で生活している要介護者が自宅に一人で残された場合、どうなってしまうのか。
そして、妻、夫や娘、息子、あるいはその嫁などが一人でお世話しようとしたら、どういう結果を招くのか。
自宅で介護する場合、付きっきりで側にいない限り、食生活は不規則なり、入浴も不十分になります。
低栄養と不潔な環境は免疫力を低下させ、生命を脅かすことになります。
介護は、とても一人で手に負えるものではないのです。
その点、介護施設には、介護のプロフェッショナルがそろっています。
栄養バランスが考えられた食事、体力と可動域を考慮した適切なリハビリテーションだけでも血糖値や血圧が安定し、体調も上向きになり、それまで服用していた薬が半分以下になる場合もあります。
こう考えるのはどうでしょうか。
よく分からない病気や骨折をしたとき、「家庭の医学」を読みながら、自宅で治療する人はほぼいないはずです。
すぐに、病気を治すプロフェッショナルがいる病院へ行きますよね。
要介護者が介護施設に入るとは、それと同じようなものです。
重度の障害があるならば、介護施設でその道のプロが考えるプログラムの下で、療養生活をしたほうがいい。
そう考えれば、施設に預けようとする人も、施設で暮らすことになる人も納得できるはずです。
しかも、施設に入所すると、楽しいことが盛りだくさんです。
毎月の行事だけではなく、体調がよければ介護スタッフと車椅子で出かけて、春はお花見、夏は海、秋はお祭り、冬は雪景色を楽しめます。
また、入所者それぞれに栄養コントロールはされるものの、食事も美味しい。
施設の食事といえば、味気ないものをイメージするかもしれませんが、そんなことはありません。
例えば、行事に合わせたひな祭りのちらし寿司やクリスマス・ケーキ、季節を感じるデザートなど、栄養士が心を込めた食事は、私も食べたくなるほど美味しいものばかりです。
私は、老健たきざわの施設長になって、介護施設は介護を必要とする人たちの楽園なんだなと実感しています。
だから、毎月のお誕生会で、いつもこの言葉を口にしています。
「これからも今を大切に。楽しいことがたくさんありますように」
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