体重が11キロも落ちてたのか...肺がんによる衝撃的な「体の変化」/僕は、死なない。

「病気の名前は、肺がんです」。医師からの突然の告知。しかも一番深刻なステージ4で、抗がん剤治療をしても1年生存率は約30%だった...。2016年9月、50歳でがんの告知を受けた刀根 健さん。残酷な現実を突きつけられても「絶対に生き残る」と決意し、あらゆる治療法を試して必死で生きようとする姿に...感動と賛否が巻き起こった話題の著書『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)より抜粋。過去の掲載で大きな反響があった本連載を、今回特別に再掲載します。

※本記事は刀根 健著の書籍『僕は、死なない。』から一部抜粋・編集しました。 
※この記事はセンシティブな内容を含みます。ご了承の上、お読みください。

【前回】味のついた料理が、こんなに美味いなんて...「がんの入院」で痛感した幸せ 体重が11キロも落ちてたのか...肺がんによる衝撃的な「体の変化」/僕は、死なない。 d29f1ed0b7d9cf1e448bd626faa579a9da5ed90b.jpg

検査の日々

翌朝6時に嶋田さんがベッドサイドにやってきた。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

「ええ、これつけてますから」

僕は耳元にある耳栓を手に持って笑った。

僕の横のオジサンのいびきは相当強烈だったが、耳栓のおかげで全く気にならなかった。

「それはよかったです。準備がいいですね」

彼女は笑った。

「朝の体温と血圧、酸素濃度を測らせていただきます」

そう言うと、そそくさと測定を始めた。

僕は気づいた。

そういえば、嶋田さん、昨日の夕方もいたな。

ということは、あれからずっと勤務だったのか。

看護師って大変な仕事だな。

「後で体重も測っておいてくださいね。廊下の突き当たりの左側に体重計がありますので。毎朝、体重を測って教えてください」

「わかりました」

「それと今日は午後にCT撮りますので、お昼は食べないでいてくださいね」

午前7時に食堂へ向かう途中、体重を測ると52.6キロだった。

厚手のパジャマを着てこの体重だから、実質51キロ台だろう。

下手するとフライ級(49〜50.8キロ)だ。

長嶺と一緒になったな。

ま、長嶺は6キロぐらい減量してフライに落としていたんだけど、僕は減量なしでフライ級か。

僕は苦笑いをした。

がんがわかる前はおおよそ62キロだったから、約11キロ減量したことになるのか。

あんなにトレーニングしても、食事制限をしても体重は落ちなかったのに、がんってすげえや。

食堂から見える朝の景色は最高だった。

眼下には濃い緑色の蓮の葉につつまれた不忍池が一面に広がり、真ん中に朱色の弁天道が美しいコントラストを作っていた。

視線を上げると、青空に向かってスカイツリーが高々と立っていた。

言うことなしだ、ここは最高、最高のリゾートにやってきたぞ。

いやあ、幸せだ。

僕は一人にんまりと笑った。

午後、福山先生がベッドの脇にやってきた。

「骨シンチ検査という検査があるのですが......」

骨シンチという検査は、骨のCTみたいなもので、骨にどの程度がんが転移しているかを測る検査だった。

「刀根さんは希望されますか?」

「はい、ぜひお願いします」

もう何でもやってやるぜ。

骨シンチ検査は20日の14時に決まった。

昼過ぎに両親と妻がやってきた。

両親に医師が4人付いていることを話すと、とても安心したようだった。

「さすが東大病院だ」

父は、病院の設備や医療体制、雰囲気が気に入ったようだった。

「とにかく、お医者さんの言うことを素直によく聞くのよ、失礼なことを言っちゃダメよ」

「大丈夫だって。中学生じゃないんだから」

僕は苦笑した。

母は心配そうに何度も念押しし、2人は帰っていった。

15時からCTの撮影を行った。

がんが写りやすくするために、造影剤という薬剤を血管から注入した。

「薬剤が入ったら身体が暖かくなりますけど、それは通常の反応ですからね」

検査技師の説明どおり、お酒を飲んだときみたいに身体中がポカポカしてきた。

機械のアナウンスが耳元で聞こえた。

「はい、大きく息を吸って......止めてください」

僕は言われるまま息を吸って止めた。

もう浅い呼吸しかできなかったが、吸いきったところで胸と喉の中で痰が絡み、咳が出そうになった。

必死で咳を止めた。

「はい、ラクにしてください」

機械がアナウンスする。

ゴホゴホゴホ。

途端に咳が噴き出る。

ふうー、なんとかクリアだ。

検査が終わりベッドに戻ると、妻が待っていてくれたことが嬉しかった。

この日の検査はこれだけだった。

妻が帰宅した後、17時頃に以前心理学を教えた高島さんがお見舞いに来てくれた。

「ほんとにびっくりして、もう、とにかく会わなきゃって来てしまいました。すいません」

彼女は言った。

「いや、いいんです。来てくれただけで本当に嬉しいです」

「大丈夫なんですか?」

「ええ、僕は治りますから」

小1時間ほど話してから、彼女は言った。

「お見舞いにきたのに、逆に私が元気をもらっちゃいました」

彼女はにこやかに帰っていった。

入院3日目は生体検査。

朝一番で福山先生と若葉先生が来た。

「今日は15時から生検を行なう予定ですが、あの、細胞の採取の方法はどうしますか?」

「どうするって?方法が選べるのですか?」

「ええ、気道から内視鏡とメスを入れて取る方法と、胸から針を刺して取り出す方法の2通りあります」

「じゃ、針で刺すほうでお願いします。いや、必ずそっちでお願いします」

前回、都内の大学病院ではがんが小さかったこともあったのかもしれないが、1時間近く肺の中を内視鏡でかき回され、体調が大幅に悪くなった経験をしていた。

「わかりました。そっちで準備をしておきますね。えっと、今日はお昼は抜いてくださいね」

おお、今日も昼抜きか。

僕は病院の食事が楽しみで仕方がなかったので、抜くのは残念だった。

福山先生は、生検の詳しい手順を説明して帰っていった。

昼前に長男が着替えなどの荷物を持ってきた。

「父さん、調子はどう?」

「検査まで一緒にいてくれる?」

「うん、いいよ」

生体検査まで彼と一緒にいることで、気を紛らわすことができた。

15時、ガラガラと音がしてカーテンの向こうにストレッチャーが運ばれてきた。

「これに乗っていきます」

福山先生がにこやかに言った。

「じゃ、行ってくるね」

長男に声をかけた。

「行ってらっしゃい」

ストレッチャーに仰向けに寝ると、病院の天井が見えた。

「じゃ、行きますよ」

福山先生の掛け声とともにガラガラと天井が動き始めた。

映画やドラマでよくあるシーン。

ああ、乗っている人は、こんな感じなのか。

乗り心地は思っていた以上に快適だった。

天井が動いていく。

どこをどう移動しているかさっぱりわからなかった。

生検は胸に部分麻酔をかけ、少し太い針を外から突き刺してがん細胞を採取する方法だ。

検査室に入ると僕の胸に部分麻酔がかけられた。

先生の掛け声「はい、いきますよ」とともにバチン!という音がした。

なんだかホッチキスみたいだった。

針が打ち込まれた感触は全くなかった。

「はい、無事終わりました。ちゃんと採取できましたよ」

福山先生が優しく言って、そしてまたストレッチャーに乗ってベッドまで戻ってきた。

ベッド脇で待っていた長男は僕の顔を見て安心して帰宅した。

夕食後、会社の社長がお見舞いに来てくれた。

「調子どう?」

「まあまあですね」

最近の仕事の話をひと通りすると、彼女は言った。

「刀根さんの代わりに誰かを雇うとか、そういうことは考えてないからね。大事な仲間だと思っているから」

本当にありがたかった。

僕には、まだ戻る場所があるんだ。

 

刀根 健(とね・たけし)

1966年、千葉県出身。東京電機大学理工学部卒業後、大手商社を経て、教育系企業に。2016年9月1日に肺がん(ステージ4)が発覚。翌年6月に新たに脳転移が見つかるなど絶望的な状況の中で、ある神秘的な体験し、1カ月の入院を経て奇跡的に回復。ほかの著書に、人生に迷うすべての現代人におくる人生寓話『さとりをひらいた犬 ほんとうの自分に出会う物語』がある。オンラインサロン「みんな、死なない。」および刀根健公式ブログ「Being Sea」を展開中。

この記事は『僕は、死なない。 全身末期がんから生還してわかった人生に奇跡を起こすサレンダーの法則』(刀根 健/SBクリエイティブ)からの抜粋です。

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