「病気の名前は、肺がんです」。医師からの突然の告知。しかも一番深刻なステージ4で、抗がん剤治療をしても1年生存率は約30%だった...。2016年9月、50歳でがんの告知を受けた刀根 健さん。残酷な現実を突きつけられても「絶対に生き残る」と決意し、あらゆる治療法を試して必死で生きようとする姿に...感動と賛否が巻き起こった話題の著書『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)より抜粋。過去の掲載で大きな反響があった本連載を、今回特別に再掲載します。
※本記事は刀根 健著の書籍『僕は、死なない。』から一部抜粋・編集しました。
※この記事はセンシティブな内容を含みます。ご了承の上、お読みください。
【前回】「僕は死んじゃうんだ...!」恐怖にもだえ苦しんだ「がん宣告の夜」
覚悟を決めろ
翌日、僕は家を出ると昨日とは違った大学病院へと向かった。
実は僕のがんが見つかったのには、ある経緯があった。
その年2016年3月の健康診断で僕の心臓に不整脈が見つかった。
詳しく調べたところ、不整脈は「心房細動」という種類で、将来的に心筋梗塞や脳梗塞を引き起こすような血栓、血の塊を作り出しやすいため、9月に手術をして治療することになった。
その前月8月2日に手術に備えて心臓のCT撮影を行なったところ、その日の夜に病院から連絡が来た。
「肺に影が写っています。もしかするとがんかもしれません」
ということで、翌週の8月9日に肺について詳しくCTを撮り直す、と僕の心臓の主治医の松井先生は言った。
「おそらく、がんでしょう。でも安心してください。それほど大きくないので手術で取れると思いますよ。手術をするならば名人がいいでしょうから、そういうブラックジャックみたいなドクターがいる病院を調べて紹介状を書きますね」
松井先生は気さくで明るい人柄で、僕がショックを受けないように言葉を選んで話してくれた。
自分の大学病院にも呼吸器科があるにもかかわらず、都内の大学病院を紹介してくれたのだ。
そこで昨日の肺がんステージ4の宣告を受けた病院に行くことになったのである。
肺がんの病状を聞いてから心臓の治療計画を立て直そうということで、翌日の9月2日に予約を入れてあった。
診察室に入ると、松井先生が心配そうに聞いてきた。
「どうでしたか?」
僕は即座に答えた。
「いや、最悪です。最悪のステージ4でした」
「うそ? ほんとに?」
松井先生は丸い目をさらに真ん丸にして驚いた。
「はい、リンパや骨にも転移しているって言われました」
「マジですか......」
「抗がん剤を継ぎ足して延命治療をしてくしかないって......」
僕はそこで言葉が詰まった。
松井先生は僕の言葉を継ぎ足すように話を始めた。
「実は私の家内の父も肺がんだったんです。背中が痛いって言うので病院に連れて行ったら、もう手遅れの状態でした。ステージ4で余命1年って言われました。でも食べ物だとか生活だとかいろいろ工夫してやって、結局亡くなったのですが、病院から言われた余命よりも随分長く元気に生きましたよ」
「そうなんですか」
「私たち循環器、心臓系の患者さんは病院に来るときにはもう意識がない方も多いんです。
だから時間がないんです。治療法を調べたり、それをやったりする時間がないんですよ。
心臓が止まったら、あっという間ですからね」
「なるほど、そうですね」
「それに比べてがんには時間がある。いろいろなことを調べて治療をする時間があるんです。時間があれば、いろいろできます。可能性が広がります。心臓の場合、家族にお別れを言うこともできないまま亡くなっていく人がほとんどなんですから」
「そうですね、少なくとも家族にお別れを言う時間はありますものね」
松井先生は僕の目を見て、力強く言った。
「大丈夫です。治ります」
え?
それは僕が白衣を着た人に一番言ってもらいたかった言葉だった。
松井先生は続けた。
「病院は、病気を治すところです」
視界がゆるんだ。
涙がじわっとあふれてきた。
僕は気づかれないように上を向いた。
「心臓の治療は肺が治ってからにしましょう。順番的にはそれがいいでしょうから。肺を治してから、心臓です」
松井先生はきっぱりと言った。
「刀根さん、頑張ってください」
松井先生は力強く僕の手を握った。
僕はこのときの松井先生を生涯忘れないだろう。
松井先生は絶望しかかってた僕に勇気を与えてくれたのだから。
これが本当の医者というものなのかもしれない。
その日の夕方、両親がやって来た。
僕の診察結果を聞き、驚いて駆けつけて来たのだ。
「ホントなの?」
母が心配そうに言う。
「うん、間違いない。CTとかペット検査とかの結果からそうなんだって」
「手術で取れないのか?」
父は以前にも聞いた同じことをまた聞いてきた。
「うん、先生に確認したら、しないほうがいいって」
「ホントか?ホントにそう言ったのか?」
「うん、そう言った」
「いや、今度行ったとき、もう一度確認してきなさい。私は手術で取るのが一番いいと思うんだ」
「いや、リンパや骨にも転移しているから、手術をしても無駄だって。逆に体力が落ちるから、しないほうがいいっていうことらしい」
「いやいや、先生はそう言ったかもしれないが、現にがんが大きくなる可能性があるんだったら、切って取ったほうがいいだろう。やっぱり手術をしたほうがいいと思うから、もう一度確認してきなさい」
父は頑固だった。
僕と父との会話は、これまでもこのように平行線をたどることが多く、父が僕の意見や気持ちを受け入れたことは僕の記憶ではほとんどなかった。
「わかった、もう一度、聞いてみるよ」
僕の答えに父は安心したようにうなずいた。
「次はいつ行くの?」
母が聞く。
「うん、15日かな、2週間後」
「それまでにやっておくこととか、ないのか?」
父が聞く。
「特にないって。まあでも、今までと同じ生活をするわけにはいかないから、できることはやろうと思ってる」
「できることって?」
「食事とか、生活習慣とかかな。あと、本もいっぱい読んで、とにかく勉強するよ」
僕の答えに父はうなずいた。
「レイコさん、大丈夫?」
母が妻を気遣った。
「はい、大丈夫です。私も健さんと一緒に頑張ります」
妻がニコッと笑いながら言った。
僕はなんだか心強かった。
「ありがとうね、本当にありがとう。苦労をかけるけど、よろしく頼むわね」
母が少し涙ぐんだ。
妻も目を赤くしてうなずいた。
「食事って、具体的に何をするんだ?」
父が聞いた。
「そうだね、いろいろ調べると、まずは野菜をたくさん食べることと、肉を止めることかな。あとはサプリも調べてみる」
「そんなもので治るのか?肉は食べたほうがいいんじゃないか?栄養があるし」
「いや、肉はがんにはよくないらしいんだ。結構いろいろな本にそう書いてあるし。もう既にそういう食事を始めてるんだ」
「いや、でも......」
「ま、自分のことだから任せて」
父の言葉をさえぎって僕は言った。
父は口をつぐんだ。
僕は8月9日のCTで松井先生から「おそらくがんでしょう」と言われてから、食事内容を大幅に変えていた。
毎朝キャベツやレタス、にんじんやりんごなどをミキサーに入れ、1リットル以上の生野菜ジュースを飲むことを始めていたし、肉食もいっさい止めていた。
まだ始めて1カ月経ってはいなかったが、身体がきれいになっていくように感じていた。
「じゃあ、頑張ってね」いろいろと話をした後、両親はそう言って心配そうに帰って行った。