父の死から40年たって、僕の中で初めて死を受け入れた
――三人称の死についてはどのように考えていますか?
養老:三人称の死は、彼ら彼女らの死だから、今こうしている間にも世界中のあらゆる所で起こっています。そういうことに気を取られてしまうと、日常生活を普通に送れない。だから、ほとんどの人が三人称の死は自分と無関係だと思って過ごしているはずです。
――二人称の死は、知人や肉親など、自分の親しい人の死ということになるのでしょうか?
養老:そうです。一人称と三人称の死は、考えても仕方のないことだけど、二人称の死はそうはいきません。相手が親しい人であればあるほど、心に深い傷を負うから。僕の父の話をしましょうか。父は僕が4歳の時に結核で亡くなりました。自宅で亡くなったんですが、父は僕ににっこりと笑顔を見せて、その直後に喀血(かっけつ)して亡くなったんです。
その時、周囲の大人に「お父さんにさよならを言いなさい」と促されたんだけど、言えなかった。この時の光景は、映画のワンシーンのように時々記憶にふと甦ってきたりしたものです。
それから社会人になっても、僕は人に挨拶をするのが苦手になってしまった。家に母親の友達が来ていたりしても、「こんにちは」も「いらっしゃい」も言えずに後で怒られるわけです。それが父親の死と関係があることに気付いたのは、40代半ばになって、通勤途中の地下鉄のホームにいた時。突然、「そうか、あの時親父に『さよなら』を言えなかったから、自分はこうなったんだ」と。それは、僕の中で初めて父親が死んだ瞬間で、それと同時に涙があふれてきました。
――お父さんの死を受け入れるのに40年もの月日がかかったのですね。
養老:そうです。だから、「終活」なんてバカバカしいと言うんです。自分の死を受け入れるのは、自分じゃなくて、子供や配偶者や知人や身内たち。こうして欲しいとか、ああして欲しいなんて願望が叶うはずがないんです。