性別:男
年齢:69
プロフィール:50歳で早期退職をし、好きな料理とお酒を楽しめる居酒屋を始めました。
※ 毎日が発見ネットの体験記は、すべて個人の体験に基づいているものです。
◇◇◇
私は50歳を迎えた年に、妻と二人きりで取り仕切る、こじんまりとした居酒屋を始めました。店は10人も入れば満席という、カウンター席だけのオープンキッチンになっています。
開店して5年くらい経過して、それなりに忙しい日を過ごしていたある日のことです。近くのホテルに宿泊していて、ホテルから紹介されたのであろう5人のお客さんがみえました。5人ともに年は50前後でしょうか、似通っていて上司と部下なのか、朋輩同士なのかは判然としません。自ら名乗ったのは会社名だけです。誰もが知る超大手企業でした。
5人は店の味を気に入ってくれたようで、ずいぶんと飲み食いしてくれました。そして勘定を終えた帰りがけに、「〇月〇日7時ごろ今日と同じ5人で来るから、あの料理とこの料理に、あの酒も用意しておいてくれるかな。あとは適当に任せるから」と、言い置いて帰りました。あの料理とこの料理とは、そのとき居合わせた店の常連さんが予約注文で召し上がっていた、「鯛の骨蒸し」と「和牛ヒレステーキ」です。あの酒とは、地酒として名高い高価な純米大吟醸酒です。「はい、わかりました。お越しをお待ちしております」と、私と妻は5人を見送りました。
そして、〇月〇日になり、7時を何分経過しても5人の姿も見えなければ、電話の1本も来ません。そのときの店には、常連さんが2組5名居合わせました。これで、予約の5人がみえたら満席です。8時を回り9時になっても音沙汰なしです。この間に、顔見知りのお客さんが幾組か顔をのぞかせましたが、お断りするしかありません。これが、小規模店の泣き所です。「鯛の松皮造り」「桜海老のかき揚げ」「鯛の骨蒸し」「和牛ヒレステーキ」etcの仕込みはすべて終えて、お出しするだけです。
9時を何分か回って、これはすっぽかされたと諦めかけたときです。予約の5人のうちの1人が入ってきました。この1人の客の態度がなんとも不可解きわまりないものでした。
私「お揃いになるまでお待ちになりますか?」
客「いや、今日は一人です」
私「ご用意した料理を、お出ししますか?」
客「ビールとお通しだけでけっこうです」
えっ! と心の中で驚くとともに、この客の対応が、私には宇宙人のように思えました。分別盛りの大人がわがまま放題の注文を予約して、何事もなかったかのように振る舞うのは理解を超えていました。それにしても、このお客さんは謝るわけでもなく、言い訳をするでもなく、いったい何をしに店へ顔を出したのでしょうか? いまだに、腑に落ちません。
その客は結局、ビール1本飲んで帰りました。ほかにお客さんがいなければ、その客を問い詰めていたかもしれませんが、居合わせたお客さんを不愉快にさせるわけにもいきません。
同じ予約でも、日時人数だけとか、店のコース料理の予約なら、実質の被害金額は知れています。この日は、お帰り願った常連さんの売上まで含めたら、10万円近い損害になりました。
けれども、私には怒りよりも、このとんでもない5人の客に対する、あきれ果てた感情のほうが強く湧いていました。同じことを若い人がしたのなら、たぶん私は苦笑いをして終わっていたと思います。会社は分かっているから、乗り込んで一言とも考えましたが、私はそういう修羅場を好みません。ふだんは食材が余れば店を終えてから食べるのが常ですが、このときばかりは見るのも嫌で、もったいないけれどすべて捨てました。情けないですが、それがそのときの私にできた唯一の腹いせだったのです。
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