<この体験記を書いた人>
ペンネーム:わんわん
性別:女
年齢:51
プロフィール:会社勤めの主婦。55歳会社員の夫、20歳大学生の息子と3人で首都圏在住。
10年前に73歳で他界した私の父は、大阪生まれ大阪育ち。
若い頃の写真を見ると往年の日活スターのような風貌。
女性にもてていたし、人付き合いもよかったため友人も多く人気者だったそうです。
その父がなぜか無口で真面目、人付き合いも苦手、容姿も目立つところのないけれど質素で努力家の私の母と結婚したときは、周囲も驚いたとのこと。
ここまで聞くと「ご自慢のお父様でいらしたのね」と言ってくださる方が多いのですが、これらは家の外の世界に向けた父の顔。
家庭内ではひどい暴君で、長女の私のことはかわいがってくれていたようですが、母への態度は酷いものでした。
時代は1970年代から1980年代のはじめの頃。
当時はまだ「ドメスティックバイオレンス」なんて言葉もなく、父からの母への一方的な暴力や暴言も「夫婦喧嘩」として世間からも軽く扱われていました。
夫が妻に暴力をふるうのも「よくあること」「妻は我慢して当然」として片付けられていたのです。
母がつらい日々を送っていたのは、母は黙っていたけれど、子どもだった私にも分かりました。
両親は同い年、ともに公務員だったので給料はほぼ同額でしたが、母の給料から生活費を差し引いた分は父が好き勝手に使い贅沢三昧。
母はフルタイムで公務員の仕事をしながら一人で子育てや家事を担い、質素に暮らしていました。
私の言動が父の意に添わなかったら、私が父に怒られるのではなく「お前の教育が悪いからだ」と母が責められるので、私も緊張して暮らしていました。
私の記憶に残っている家庭内の様子は、私が寝る夜8~9時頃に、酔った父が同僚や友人を引き連れて帰宅し、母がその接待に明け暮れている姿です。
私が寝ている間に何があったか怖くて聞けないほど、顔にひどい青あざを作った母が、仕事に行くためにあざを化粧で隠そうと苦心している姿...。
後々聞いた話ですが、父は浮気も隠すことなく、何人も相手がいたそうです。
その結婚生活も、私が小学6年生の頃、母が初めて勇気を振り絞り父に立ち向かい、離婚を拒む父からの1年近くに渡る攻撃に耐え、最終的に離婚したことで終わりました。
母が離婚を決意してから成し遂げるまでの1年間は、母への暴力も増えましたし、私にとっても当時の記憶がなくなるくらいに苛烈な日々でした。
離婚は成立したものの、父は有無を言わせず私を母から引き離し、離婚2年後には、当時中学2年生だった私と13歳しか離れていない若い同僚女性と再婚。
再婚相手の女性から暴力こそ受けませんでしたが、父のいないところでは私も相当嫌な思いをしてきました。
当時は彼女からの仕返しが怖くて父に告げ口をすることもできない暗黒の青春時代です。
今でも再婚相手への嫌悪感は消えません。
しかし、つらい子ども時代~思春期を経たおかげで、結婚相手の本質を見抜く目が研ぎ澄まされたことが不幸中の幸いでした。
誠実で優しい今の主人と結婚することができ、父から離れた関東で暮らすことになったおかげで、生まれて初めてやっと心安らかな生活を手に入れることができました。
そんな私も29歳で長男を授かりました。
里帰り出産せず、自宅近くの病院で出産しました。
父(当時61歳)、父の後妻(当時42歳)、義両親(当時ともに67歳)が同時に産院へやってきました。
義両親はまず初孫を見に赤ちゃんルームへ。
父は孫を見ずに最初に私の病室へ直行し「ほんで、お前の体は大丈夫なんか!?」これが父の第一声でした。
母子ともに不安要素のない出産だったのですが、赤ちゃんより私を先に心配したその一言が今でも忘れられません。
過去のわだかまりが少し薄れた気がしました。
それ以後、父と本音で話ができるようになり、父も過去の行いを素直に謝ってくれました。
父の他界は突然でしたが和解した後だったので、すっきりとした気持ちで見送ることができました。
私の長男(現在21歳)に孫が生まれることが今後あれば、私もお嫁さんに同じ言葉をかけてあげようと心に決めています。
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