<この体験記を書いた人>
ペンネーム:ひまわり
性別:女
年齢:44
プロフィール:もうすぐ母の三回忌、強くて優しい母は私の憧れの存在です。
2013年5月に第一子を出産し、その年の瀬に母が大腸がんステージ4だと告げられました。
まさに青天の霹靂でした。
年が明けてから、大学病院に転院し、検査が続き治療方針が決定。そして手術の連絡を待つ約2カ月間、家族にとってこの期間はとても長く感じました。
その間、母といろいろ話をしましたが、母は抗ガン剤による脱毛をすごく恐れていました。
一方私は、髪の毛より命だからと、脱毛について調べることは後回し。そんなあるとき、母が泣きながら、「髪が抜けるのは嫌やねん。ちゃんとウィッグのこと、脱毛のこと、調べてほしい」と訴えてきたのです。
母の従姉妹はその前の年、乳がんでこの世を去りました。
その従姉妹の脱毛が母はかなりショックだったようで、自分も抜けてしまうことを恐れ悲しんでいました。母の涙を見て、私はそんな母の気持ちに全く寄り添えていなかったと反省しました。髪より命だと思っていましたが、母は人に弱いところを絶対見せない人。そんな母が涙を見せて訴えるくらいだったのですから......。
それから私は、美容師の友達に聞いたりいろいろ調べながら、サンプルを取り寄せて母とウィッグを選びました。
母はそれを被り、ポーズを取ったり、孫に被せて笑ったり、頭の禿げた父に被せて大爆笑。そこには母の笑顔がありました。
前向きに治療を受け入れ、その手術の連絡待ちという中、きっといろいろ考えただろうと思います。ひとりで泣いたこともきっとあったでしょう。でも家族の前で取り乱さない、涙も流さない、弱音も吐きません。
「もっと『お母さん頑張れ!』って言ってよ!」と逆にこちらが鼓舞されるくらい母は強かったのです。ですが、気持ちはいっぱいいっぱいだったと思います。結局、後にも先にも母が泣いて訴えたのはこの脱毛のことだけでした。
その後、手術が行なわれ治療が始まりました。再発もあり、脱毛がある薬も使い、買っておいたウィッグを使うことになりました。母は上手くウィッグをつけれるように、何度も鏡に向かって練習していました。
母はつき合いが多かったのですが、幼馴染以外の友達には誰にも病気のことは伝えていませんでした。入院が迫ると、いつもランチに誘ってくるお友達に連絡をして、スケジュールをランチで埋め尽くしました。
カレンダーは連日ランチ、ランチ。
こうすれば、しばらくお誘いはないから入院中誘われることもないというのです。最後まで入院前のランチはお約束で、徹底的に病気である事を隠しました。
自分が病気を打ち明けたとき、相手はどう思うのか、どう思われるのか、湿っぽくなっても嫌だし、余計な情報に埋もれるのも嫌だと言っていた母。だから、ウィッグにも気づかれないよう何度も鏡に向かって練習していたようです。
私のところに遊びに来たときも、ウィッグでとても自然で若々しい姿でした。最期までとても病気には見えないくらい、凛として、とても綺麗な母でした。
母らしく病気と向き合った3年9カ月。
友達に最後までバレることなく、美しく、凛とし、明るい母の姿だけを皆さんの目に焼きつけました。それを「すごくお母さんらしいね」と言ってくれた人がいました。娘としては、ただただ嬉しい限りです。母の娘で本当に良かった。いつまで憧れの存在です。
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