【風、薫る】「あなたなら、きっと大丈夫」母と名乗らなかった文(内田慈)が直美(上坂樹里)に遺した言葉
毎日の生活にドキドキやわくわく、そしてホロリなど様々な感情を届けてくれるNHK連続テレビ小説(通称朝ドラ)。毎日が発見ネットではエンタメライターの田幸和歌子さんに、楽しみ方や豆知識を語っていただく連載をお届けしています。今回は「名乗らない母の愛」について。あなたはどのように観ましたか?
田中ひかる著『明治のナイチンゲール大関和物語』(中央公論新社)を原案とするオリジナル作品で、見上愛、上坂樹里がW主演を務めるNHK連続テレビ小説『風、薫る』。第17週「脈動」は、直美(上坂樹里)と、自分を捨てた母らしき文(内田慈)が最後の時間をともに過ごす一週だ。家族とは血でつながるものか、選び支え合うものか。前週の問いに、この週は一つの答えが出る。ただし、母子が名乗り合うという形ではなかった。
文が母だと確信した直美は、もしものときに知らせる人はいないかと尋ねる。だが文は、家族は本当にいないとかわす。
直美は文の過去を瑞穂屋の卯三郎(坂東彌十郎)に尋ねる。店ができたばかりの明治元年、横浜で出会った文は、商人である彼に詐欺を持ちかけてきたのだという。どんな人かと問うと、返ってきたのは「賢い、働き者」。それを聞いた直美も、身分を偽って結婚しようとしたことがある、相手も結婚詐欺師だったと打ち明ける。生き延びるために知恵を使ってきた点で、直美と文はよく似ている。ただ直美は、そこまでして生きてきた人がやりたいことは何もないと言うのを、不思議に思ってもいる。
調子がいいからと文が手料理を出してくれた席で、直美は唐突に聞く。「あの、私の母親ですか」。文の表情が一変する。名前もつけずに赤ん坊を捨てるような女に見えるということですよね、と冷ややかに突き放される。
寛太(藤原季節)の調べで来歴が見えてくる。熱海の神社で安産祈願をし、男と横浜へ移った女郎あがりの妊婦を、アメリカ人女性が世話していた。それが直美の母親で間違いないだろう、と寛太は言う。男は身重の女を置いて消え、生きるのもままならない女は、せめて子どもだけはと赤ん坊を教会に預けた。
ちなみに、明治政府が1871(明治4)年の棄児養育米給与方で米を給付したのは、捨て子を引き取って育てる者に対してだった。産んだ母が自分で育てるための支えはなかった。孤児院を開いたのも多くはキリスト教系の団体で、そうした背景を思うに、直美が置かれた横浜の教会は、その空白を埋める場所だったのだろう。
脈をはかりながら、直美が話す。脈は生きている証で、子どもの頃は速く、大人になるにつれてゆっくりになる、と。その言葉に文の表情が動く。手首に触れる娘の指から、かつて自分の中にあった命の、速くて温かい脈がよみがえったのだろうか。
そんな中、吉江(原田泰造)が訪ねてくる。文が母らしいとわかったが、もういいんですという直美に、吉江は「本当にいいんですか?」と重ねる。そこで本音がこぼれる。許したわけじゃない、なんで捨てたの、なんで名前もつけてくれなかったの、謝ってほしかった、抱きしめてほしかった、おっかさんと呼んでみたかった。直美の涙に対して吉江は、看護婦になって、友達になって、家族になって、それはみんな自分で手に入れたものだと返す。
直美に頼まれて往診に来た藤田(坂口涼太郎)は、文にはひどい胃炎だと告げ、入院を勧める。応じない文は「そこまでは分不相応」。帰り際、直美が文を「母親……みたいな人」と呼ぶと、藤田はそこで初めて、胃がんが全身に広がっているとみられること、手術は難しく治療法もないことを伝える。そして言う。医者は治療法がない人にできることがほとんどない、痛み止めくらいだ、でも治らない患者にも、病院に来られない患者にも、日々看護は必要だから、頑張って。
長患いの祖母がいたという藤田が、医師としてだけでなく、身内の病を見てきた者として口にした言葉だ。治らない人のそばに残る仕事が緩和ケアとして制度になるのは、ここからおよそ100年後である。
文は、もう十分看護してもらった、来なくていいと直美を遠ざける。それでも通うが、どうするのが文のためになるのかわからない。そんな中、りんが急遽新潟から帰ってくる。りんを動かしたのは、元気のない直美を案じた環(英茉)の一通だった。りんは言う。「それは違うよ。何がフミさんのためになるとかじゃなくて、直美さんの気持ちでいいんじゃない? 直美さん、子どもなんだから」。看護婦しなくていい、こんなときまで、と。
第14週、直美は病について「私のときは言ってほしい」と言っていた。その直美が、今度は告げる側に回る。「看護婦としてでなく、大家直美としてきた」と名乗り直して治療ができないことを伝え、もし自分が家族ならと考えてみた、と食べたいものや行きたい場所を尋ねる。医者が伏せたものを、娘が引き受けた。告知は宣告ではなく、残された時間の使い道を本人が決める入り口になっている。文は、すっきりしました、と礼を言う。翌日はりんと環を交えた四人ですごろくをする。おしゃれにブドウ酒でも飲みたい、と笑う。
卯三郎がチョコレートを持って文を訪ねてくる。よく頑張りましたねと労われた文は、ほめてくれるのは珍しいと笑い、「厳しい、ショウバイジンですからね」。卯三郎も「日本人ではなく、ショウバイジン、さすが見抜かれていますね」と返す。文が一つの願いを託すのは、この場面だ。
眠ってしまった直美の頬に、文はそっと手を伸ばし、胸元からのぞいたお守りを取り出す。袋の布は、文の髪飾りと同じ柄だ。このときも文は、何も言わない。
文が最後に望んだのは、熱海の神社への参拝だった。寛太が「教会の友人」として現れ、車まで文を背負う。あの信者風の方はどういう、と問われて「腐れ縁」と笑う直美に、文は「いいご友人に恵まれて」と返す。ここに来た頃が一番幸せだった、と振り返って言葉を継ぐ。横浜の教会に捨てられていた子が、ずいぶん努力なさったんですね。もう、私のような者とはまるで違う。あなたなら、きっと大丈夫。
最後まで敬語である。
文を演じた内田慈は、Yahoo!ニュース エキスパートのインタビューで、女が一人で生きるのが今以上に厳しかった時代を二人ともくぐってきた、と指摘したうえでこう語っている。「多分お互い、それがどれだけ大変なのかっていうことが分かっている者同士として、母と子という関係もありながらも、個として、個人としてリスペクトがあったと思うんです」
言葉にしない選択に互いが寄り添う関係でもあったという。「文さんが言わないのも、直美への優しさがあって」。名乗らないのは突き放しではなく、娘を対等な一人として扱うための筋の通し方だった。
環の寝顔をかわいいと言う直美に、りんの母・美津(水野美紀)は、それは簡単、親だからだと返し、直美が環の二人目の母ならば自分は直美の二人目の母だと続ける。一人目の母上様はもっとだったと思う、何もいらないほどに、とも。よくやりました、よく頑張りました。卯三郎が文にかけたのと同じ言葉が、ここではもう一人の娘に向けられる。
直美が初めて声をあげて泣く。前週は環を囲む大人たちに向けられていた血縁によらない育ての手が、いま直美自身に差し出される。
後日、卯三郎が文の全財産を届けにくる。看護費用にと頼まれていたという。拒む直美に、卯三郎は意地っ張りなところがよく似ていると笑い、柳川文は本人がつけた名だったと明かす。自分で名をつけると愛着がわくから、と。だから子には名をつけなかったのではないか、拾った人に愛され、育ててもらいたかったからではないか、と。名前もつけずに捨てるような女、と自らを切り捨てた言葉が、ここで裏返る。名づけないことは放棄ではなく、愛と希望を込めた受け渡しだった。親が遺した遺産ですから、と促され、直美は今度は受け取る。
別れの場面もなければ、いわゆるナレ死もない。看取りを描かないことで、母と娘だけの閉じた物語にならずに済んでいる。父親がわりの吉江、新潟から急ぎ帰ってくるりん、二人目の母の美津、心配して手紙を書いた環、団子屋で待ち続ける小川(甲斐翔真)。かつて「私、嫌いなものばっかり。生まれつき家柄のいいひと、そう、いい人も嫌いです。何より自分が嫌い」と言い放った女が、いまは多くの人に愛されている。神社で文が告げた「あなたなら、きっと大丈夫」は、それを見届けた言葉でもある。
長屋で子どもらと遊び、猫の鳴きまねで直美を呼び出し、信者に化けて母を背負う藤原季節の七変化ぶりと、直美との距離の取り方も心地よい。
藤田が言い置いた「病院に来られない患者」は、次週以降の伏線でもある。直美のモチーフとなった鈴木雅は、大関和と同期のトレインドナースで、帝国大学医科大学附属第一医院の内科看病婦取締を務めたのち、1891(明治24)年に日本初の派出看護婦会「慈善看護婦会」を設立した。病院に来られない人のもとへ、看護婦のほうから出向く仕組みだ。文が遺した金は、その一歩を押すことになるのだろう。
文/田幸和歌子
1973年、長野県生まれ。出版社、広告制作会社を経て、フリーランスのライターに。ドラマコラムをweb媒体などで執筆するほか、週刊誌や月刊誌、夕刊紙などで医療、芸能、教育関係の取材や著名人インタビューなどを行う。Yahoo!のエンタメ公式コメンテーター。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など。


