【ブギウギ】羽鳥先生の運命は...役者・草彅剛が持つ「不思議な力」が作り上げた「感動」と妙な説得力

【先週】戦時中をたっぷり描く特異な朝ドラ。何もかも失った人々に、ヒロインの歌は何を与えるか

毎日の生活にドキドキやわくわく、そしてホロリなど様々な感情を届けてくれるNHK連続テレビ小説(通称朝ドラ)。毎日が発見ネットではエンタメライターの田幸和歌子さんに、楽しみ方や豆知識を語っていただく連載をお届けしています。今週は「草彅剛という不思議な役者」について。あなたはどのように観ましたか?

※本記事にはネタバレが含まれています。

【ブギウギ】羽鳥先生の運命は...役者・草彅剛が持つ「不思議な力」が作り上げた「感動」と妙な説得力 pixta_66123328_M.jpg

趣里主演のNHK連続テレビ小説(通称「朝ドラ」)『ブギウギ』の第15週「ワテらはもう自由や」が放送された。

舞台は終戦後。今週の見所は終戦後に「自由」を手にしたスズ子(趣里)とりつ子(菊地凛子)のフルサイズのパフォーマンス。一方、ステージパフォーマンスを長尺で盛り込む週にありがちな、良い点と粗い点が際立つ週でもあった。

スズ子(趣里)たちは巡業先の富山で玉音放送を聞く。りつ子(菊地凛子)は慰問先の鹿児島で敗戦を知り、上海の羽鳥善一(草彅剛)は無事、日本に帰れるのか不安を抱いていた。そんな中、羽鳥が何者かに銃をつきつけられ、とらえられる緊迫のシーンで月曜は終了。再び羽鳥が登場したのは木曜。久しぶりのパフォーマンスを終えたりつ子とスズ子のもとに「ただいま!」と姿を現し、「運良く帰ることができたよ」「大変だった。拘束されて3カ月、運良く解放されて引き上げ船に潜り込むことができた」と説明し、「ホントについてたよ」と笑う。

そこから回想シーンで羽鳥と家族の再会シーンが描かれた。本作が凄いのは、月曜ラストに煽っておいて、その後の描写が全然なく、「大変だった」「運良く~」というセリフで済ませる粗いご都合展開なのに、多くの視聴者はちゃんと感動していること。

そこには「羽鳥先生なら、運良さそうだもんな」「羽鳥先生なら、ぬるりと危険をすり抜けて、笑っていそうだもんな」と思わせてしまう羽鳥という人物像、そこに説得力を持たせる草彅剛という役者の持つ不思議な軽やかさがある。良い役者がいれば、緻密な脚本・丁寧な演出がなくとも成立することを痛感させるくだりだ。

一方、終戦から3カ月、愛助(水上恒司)の病状は落ち着き、大学に復学。劇場も再開となり、スズ子とりつ子は同じ公演に出演する。

当日、スズ子の楽屋を訪ねたりつ子は、特攻隊員たちに言われた「晴れ晴れと逝けます」「思い残すことはありません」の声が耳から離れないと語り、「歌は人を生かすために歌うもんでしょう。戦争なんてクソ食らえよ!」と悔しさを吐き出す。

すると、スズ子もりつ子の言葉によって目覚めたかのように言う。
「ほんなら、これからはワテらの歌で生かさな。今がどん底やったら、後は良くなるだけですもんね」「うまくやれるかやなんて、いったん置くわ。ワテは好きに歌う。そんで、お客さん全員片っ端から元気にしたる!」

そこから、りつ子はステージへ行き、特攻隊員たちを戦地に送ってしまった『別れのブルース』を、今度は人々を生かすために歌う。続いて、スズ子は戦中には歌えなかった『ラッパと娘』を熱唱。自由に駆け回り、歌い踊るスズ子に観客は盛り上がり、その中に復員した羽鳥の姿もあったのだった。

この公演を機に、スズ子のもとには公演依頼が殺到。楽団員たちも多忙になっていることを知ったスズ子は、楽団の解散を決める。

ちなみに、今週、サブで描かれたのは、小夜(富田望生)の片言英語の「ギブミーチョコレート」と米兵の交流、ウナギへの執念、宝くじ。

闇市で購入した宝くじをスズ子は愛助に見せ、「富くじのことらしいわ」と言い、当たったら10万円という金額を聞いた愛助は「キートンでもチャップリンでも日本に呼べるんちゃうか」と目を輝かせ、小夜はウナギを食べたいと言う。

少々ブツ切りで唐突な印象が多かった部分を補足すると、戦争中はウナギの餌が統制の対象となったため、生産ができなくなっていた。しかし、戦後になって、従来のクロコウナギ(体長15センチぐらいに成長したウナギ)から育てる養殖方法では生産量に限界があるとして、1946年にシロコウナギ(卵からかえって間もない色が白いウナギ)から育てる方法が確立。この養殖方法が全国各地に広がったことで、うなぎの養殖が発展していく(浜松市公式HP内「100年の歴史を持つ"うなぎ養殖"発祥の地・浜松」)。この転換期を思うと、奉公先でタレだけ舐めた小夜の口にウナギが入る日も遠くない気がする。

もう一つ、宝くじも、戦中戦後の変化を象徴するアイテムだった。日本の「宝くじ」は、江戸時代に神社や寺の修復費を集める目的で発行されていた「富籤(とみくじ)」の頃からあるが、1944年には日中戦争の戦費調達のために制定された臨時資金調整法に基づき、「福券」が発売。1945年7月には、戦争の勝利への祈りをこめて「勝札」という名で発売された。だが、その直後、8月の抽選を待たず終戦となったため、皮肉にも「負札」の異名をとったのだ。

それが「宝籤(たからくじ)」に名称を変えて登場したのは、同年10月。当時はニセモノも出るほどの人気だったという。ちなみに、当時の1等賞金10万円の価値がどのくらいかというと、「厚生省指導による組み立て住宅(6坪余)1500円」「白米1升(ヤミ値)70円」というから、夢のある金額だ(宝くじ公式サイト「宝くじのあゆみ」より)。

来週はスズ子が女優になる展開が描かれる。盛りだくさんの内容になりそうだ。

文/田幸和歌子
 

田幸和歌子(たこう・わかこ)
1973年、長野県生まれ。出版社、広告制作会社を経て、フリーランスのライターに。ドラマコラムをweb媒体などで執筆するほか、週刊誌や月刊誌、夕刊紙などで医療、芸能、教育関係の取材や著名人インタビューなどを行う。Yahoo!のエンタメ公式コメンテーター。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など。

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