毎日の生活にドキドキやわくわく、そしてホロリなど様々な感情を届けてくれるNHK連続テレビ小説(通称朝ドラ)。毎日が発見ネットではエンタメライターの田幸和歌子さんに、楽しみ方や豆知識を語っていただく連載をお届けしています。今回は「冷たい『正しさ』」について。あなたはどのように観ましたか?
【前回】りんは「間違えた」のか? 看病婦ツヤが見た「夢」の行方
※本記事にはネタバレが含まれています。

田中ひかる著『明治のナイチンゲール大関和物語』(中央公論新社)を原案とするオリジナル作品で、見上愛、上坂樹里がW主演を務めるNHK連続テレビ小説『風、薫る』。第14週「ウソと誠」は、その題のとおり、いくつもの「嘘」が交わされる一週となった。嘘は誠実の反対なのか、それとも、相手を思うがゆえの、もっとも誠実なふるまいになりうるのか。そして、看護とは何かを問い直し続けるりん(見上愛)は、「実力主義」「自己責任」という冷たい「正しさ」ともぶつかっていく。
週の前半で描かれるのは、看護婦の働き方をめぐる二つの立場だ。休みなく患者に寄り添うりんに対し、取締である直美(上坂樹里)は、ほかの者が休みやすくなるよう、自ら率先して休みをとる。看護婦という職業を成り立たせ、職場を健全にまわすには、上に立つ直美のやり方が正しい。だが、りんはそれを割り切れない。夜中まで働き、深夜に一人でおにぎりを頬張るその姿には、疲労によるミスで現場を去ったツヤ(東野絢香)の影が重なる。
思い出すのは、スイス・ドイツ合作映画『ナースコール』(ペトラ・フォルペ監督)だ。慢性的な人手不足の病棟で、遅番に入った看護師フロリア(レオニー・ベネシュ)が、患者に誠実であろうとしながら、ついに投薬ミスを犯す。彼女を追い込むのは、本人の未熟さではなく、ナースの人手不足という構造だ。そしてそれは、明治の帝都医大病院に限らず、令和の日本、さらにはこの映画が映すスイスをはじめ、世界中の医療現場に共通する。
りんの働き方に真っ向から疑問を投げかけるのが、生徒のヒデ(池田朱那)だ。「先生は看護の仕事が天職だと思っていますか」と問われ、りんは「天職にしたいと思ってる」と答える。だがヒデは去っていく。「一ノ瀬先生が良い看護婦なら、私は看護婦になれないし、なりたくありません」。西洋には看護婦が当たり前にいて、女でも人の役に立って生きていける。そう夢見たヒデは、りんに改めて問う。看護とは何か。「目の前にいる人、弱っている人に手を差し伸べること」と答えるりんに、ヒデは返す。「その目の前に、ツヤさん、いましたよね?」。女が働ける時間は限られている、未来の見えないものに時間は使えない、と言い捨てて。目の前の一人に手を伸ばす看護が、すぐ隣で潰れていく同僚を救えていない――その矛盾を、ヒデは言い当てる。
つらいときほど笑顔をつくり、忙しそうに立ち働くりんを、直美は評価しつつも案じている。無理を重ねても、去ったツヤへの罪滅ぼしにはならない。そう諭しても、りんは「私には責任があるから」と頑なだ。人を束ねる立場に立った直美だからこそ、一人で背負い込むりんの危うさが見える。
そこへ、製薬会社で順調に出世した虎太郎(小林虎之介)が訪ねてくる。悩むりんに、彼はあっさり言い放つ。「しょせんやめるやつはやめる。成果が出ないのは、その人に力がないからだ。努力した者は努力した分だけ上に上がれる。今はそういう自由な世の中なんだから」。「看護婦」も「社会」も「夢」も、西洋から入ってきた言葉であり、概念だった。本作はこれまで、そうした新しい言葉がもたらした恩恵を描いてきた。だが「実力主義」もまた西洋由来の考え方であり、そこには、いまの「自己責任」論に通じる、切り捨ての冷たさがある。努力ではどうにもならないこともある、お金がなくて学校に行けない人も、病気になる人もいる――りんが漏らす違和感に、虎太郎は「俺はりんのせいじゃないって言ってんだ」と返す。かつて選択肢のなかった自身の貧しさを語ろうとしたのだろう。だが、りんはそれを聞かぬまま慌ただしく去り、二人の溝は深まっていく。
ヒデが辞めた責任を負わされ、りんは外科取締を解任される。直美が内科と外科を兼任し、普通の看護婦に戻ったりんは、ヒデに代わって患者の山本(本田大輔)を担当する。「自分が努力するより、下の者を育てるほうがよっぽど難しい」「答えが出るのは、ずっと先だ」と山本に慰められるりん。さらに救いとなるのは、取締として評価される直美と、失格の烙印を押されたりんの関係が、ギクシャクしていないこと。手先の不器用な直美をりんが助ける場面もあり、互いの長所も弱点も知り尽くした相棒になっているのだ。
さらに、りんと直美の心のほぐれる場面もある。久しぶりに団子屋で再会したりんとシマケン(佐野晶哉)は、近況を語り合い、互いに元気をもらう。病院の中庭では、幼馴染の見舞いに通う陸軍二等軍曹・小川(甲斐翔真)と、ひょんなことから団子を食べることになった直美が、働く姿を「りりしい」「尊敬している」と評される。「もしお邪魔でなければ、また会いに来たい」と言う小川に、直美は「お邪魔です」とにべもない。それでも小川は「わかりました、じゃ、友人になりましょう」と受け止める。容姿を褒められることの多かった直美にとって、仕事ぶりや人柄を認められることこそ、いちばん心をくすぐられる瞬間なのかもしれない。一方、直美を訪ねる詐欺師・寛太(藤原季節)も再登場する。登場のたび別人に見える芝居は、無数の映画で場数を踏んだ藤原ならではの見せ場だ。
そして週の終盤、「ウソと誠」という主題が、山本夫婦のエピソードで最も切実に問われる。山本のがんに、妻のテイ(伊勢佳世)は気づいている。だが本人には「腸炎」だと嘘をつく。わずかな希望にでも賭けたいと、妻は手術を望む。実は山本自身も、再発に気づいていた。手術後、熱は下がらず、回復しない。今井教授(古川雄大)は、もって1週間だと告げる。妻は手術を勧めたことを後悔し、見舞いに来なくなる。花火の日、山本はりんに帰りたいと懇願する。気がかりは、遺していく妻のこと。「俺のせいで後悔させたら、死んでも死にきれない」。一人で行く、見逃してくれればいい、と山本は言う。「最後にひとつ嘘をつかせてほしい......助けてください」。その思いに打たれ、りんは彼が病院を抜け出すのを手伝ってしまう。
妻がつく「腸炎」の嘘も、山本が最後につく嘘も、どちらも相手を守り、その後悔を軽くするためのものだ。ここで、嘘と誠は反転する。
病を本人にどう伝えるか。りんと直美は、互いの見解を語り合う。直美は「私のときは言ってほしい」と言う。自分のことは自分で決めたい、知る権利がある、という立場だ。対してりんは、遺される人のほうを思う。「遺された人は生きていかなきゃいけないから」。良いほうに受け取れるように、と。どちらか一方に決められる話ではない。医療者としての正しさと、一人の人間としての正しさが、必ずしも重ならないからだ。病を見つけ、治療を行うのは医師だ。しかし、最も長い時間、患者のいちばん近くで寄り添うのはナースである。だからこそ、こうした矛盾は、いつもナースの手もとに残される。看護とは、その重さを繰り返し突きつけられるシビアな仕事なのだ。
この対話は、明治だけの話ではない。日本のがん告知が「非告知」から「告知」へと大きく変わったのは、じつはごく最近のことだ。平成が始まる1990年ごろ、日本のがん告知率は15%ほどだったとされる。1993年から95年にかけて18%から28%へと伸び、2007年に施行されたがん対策基本法では、本人の意向を十分に尊重して治療方針を選ぶことが基本理念に掲げられた。いま告知はほぼ前提になったが、それでも、誰に、いつ、どこまで真実を告げるのが「誠」なのかに、たった一つの正解はない。告げるべきか、告げずにおくべきか。テイが抱えたこの迷いは、いまも患者の家族や周りの人たちが、現実にぶつかりつづけているものだ。
第14週が描いたのは、規則や「正しさ」の外側で、目の前の一人にどう誠を尽くすか、ということだった。りんが山本の背をそっと押した手は、「良い看護婦」の正解からは外れているかもしれない。それでも、看護とは何かという問いに、彼女なりの答えを返した手だった。
文/田幸和歌子




