「病気の名前は、肺がんです」。医師からの突然の告知。しかも一番深刻なステージ4で、抗がん剤治療をしても1年生存率は約30%だった...。2016年9月、50歳でがんの告知を受けた刀根 健さん。残酷な現実を突きつけられても「絶対に生き残る」と決意し、あらゆる治療法を試して必死で生きようとする姿に...感動と賛否が巻き起こった話題の著書『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)より抜粋。過去の掲載で大きな反響があった本連載を、今回特別に再掲載します。
※本記事は刀根 健著の書籍『僕は、死なない。』から一部抜粋・編集しました。
※この記事はセンシティブな内容を含みます。ご了承の上、お読みください。
【前回】退院できそうなのに...?「両眼」に転移していた「がん」に関する「不安な診断」
退院
7月10日の朝、妻がゴロゴロと荷物を入れるカートを引いてやってきた。
僕は衣類や日用品などの荷物をカートに入れた。
ふとメモ帳が目にとまった。
このメモ帳には何月何日にどんな検査や治療を行なったか、誰がお見舞いに来てくれたのかが詳細にメモしてあった。
6月13日に入院して、7月10日に退院か......何日入院していたんだろう?
数えてみると、今日がちょうど28日目だった。
28日か、いろんなことがあったな......
お見舞いに来てくれた人を数えると、74人だった。
こんなにたくさんの人が来てくれたんだ、ありがたいなぁ。
この人たちの想いも、今の状況を連れてきてくれたんだ。
本当にありがたい。
僕はメモ帳を胸に抱いて、一人ひとりの顔を浮かべて心の中でお礼を言った。
「今日で退院ですね、おめでとうございます」
嶋田さんが嬉しそうに笑って言った。
「本当にお世話になりました。ありがとうございました」
僕は頭を下げた。
「私も少しさみしくなります」
「僕もです。ホントにこの病院は居心地がよくて......もっと入院していてもいいかなって、思うぐらいで......」
「でも、退院が決まって本当によかったです。これからもお大事にしてくださいね」
「ありがとうございます」
嶋田看護師にお別れを言い、山越師長に挨拶をして約1カ月いたこの場所を後にした。
食堂から見える素晴らしい景色とスカイツリー。
明るい廊下や、感じのよい看護師たち。
本当にお世話になりました。
ありがとうございました。
僕は心の中で、東大病院に別れを告げた。
退院手続きを1階の入退院センターで行なった後、妻と2人で病院を出た。
入院したときと違って、外は初夏の温かい風が吹いていた。
こんな季節になっていたんだ。
横を見ると、妻が笑っている。
ああー、退院できて、本当によかった。
なんて幸せなんだろう。
病院を出て歩くと、まだまだすぐに息が切れた。
股関節もズキズキと痛んだ。
アレセンサを飲んでまだ10日あまり。
そんなにすぐには効くはずもない。
僕はゆっくり休みながら歩き、電車とバスを乗り継いで家に帰った。
「ただいまー」
誰もいない部屋に僕の声が響く。
ひと月ぶりに家に帰ってきた。
不思議な感じがした。
ここを出るとき、帰って来ることは想像できなかった。
もう二度と帰って来ることはないと思っていた。
それが、今、ここにいる。
僕は、生きて、ここに戻って来たんだ......。
胸の中がじーんとした。
「ちょっと休もうよ」
妻が言った。
「ううん、お風呂、入りたいな」
病院ではずっとシャワーだったので、湯船に浸かりたかった。
妻がすぐに湯船にお湯を張ってくれた。
湯船に浸かると、暖かなお湯の熱が身体にしみ込んできた。
手や足の指先がジンジンと喜んでいた。
あー、気持ちいいなー、お風呂って、最高。
ん?
そのとき、風呂場の床がカビで黒くなっていることに気づいた。
おっ、カビてんじゃん。
僕はタワシを取ると、ゴシゴシと床をこすり始めた。
すぐに真っ黒な汚れがお湯とともに流れ出した。
ゴシゴシ、ゴシゴシ......。
ザーッとシャワーで流すと、床はぴかぴかになった。
やった、キレイになったぞ。
スッキリだ。
ん?
何やってんだ、僕は?
退院したばっかなのに、風呂場の掃除なんかしてる......。
キレイになった床を見ながら、思わず苦笑いしてしまった。