「病気の名前は、肺がんです」。医師からの突然の告知。しかも一番深刻なステージ4で、抗がん剤治療をしても1年生存率は約30%だった...。2016年9月、50歳でがんの告知を受けた刀根 健さん。残酷な現実を突きつけられても「絶対に生き残る」と決意し、あらゆる治療法を試して必死で生きようとする姿に...感動と賛否が巻き起こった話題の著書『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)より抜粋。過去の掲載で大きな反響があった本連載を、今回特別に再掲載します。
※本記事は刀根 健著の書籍『僕は、死なない。』から一部抜粋・編集しました。
※この記事はセンシティブな内容を含みます。ご了承の上、お読みください。
【前回】「お父さんとかなり関係が深いわ...」ある女性が告げた僕の「過去生」/僕は、死なない。
新しい視界
2日前、フジコさんに会った日の晩のことだった。
フジコさんからメールが来た。
「先ほど話をしたヒーラーの方、なんと今、こっちに来てるらしいの。私からも連絡を入れてみるから、刀根君からも入れてみて。河野修一さんという人よ」
普段なら来ていない人が、今、こっちに来ているらしいのだ。
これは行けということなのかもしれない。
いや、入院が決まってからのこの流れからいって、行かなければならない、僕はそう感じた。
「ありがとうございます。早速連絡を入れてみます」
僕はフェイスブックでフジコさんつながりで河野さんを見つけ、メールを入れた。
「こんばんは。初めてメールをさせていただきます。フジコさんからの紹介です。僕は今肺がんで放射線治療のために来週入院する予定です。その前に先生のセッションをぜひ受けたいと思いました。お時間は空いているでしょうか?」
「刀根さん、はじめまして。先ほどフジコさんからも連絡をいただきました。12日なら午前中が空いています」
「それではその時間にご指定の場所に伺います。よろしくお願いいたします」
恵子さんと会った翌日の12日の朝、僕は妻と2人で都営三田線の白山駅を降り、地図を見ながら約束の場所に向かった。
途中100メートルほど続く長い上り坂があった。
僕は上を見上げてため息をついた。
これくらいの坂がとてつもなく険しく感じた。
20メートル歩いては休み、また歩いては休む。
妻は優しく僕のそばに寄り添ってくれた。
なんとか坂を登りきって、約束のビルに入った。
狭い階段を3階まで登るだけで、ひと苦労だった。
そこには茶色のフランネルシャツのよく似合う柔和な男性が待っていた。
「ご体調がすぐれない中、よくいらしてくださいました。河野と申します。階段は大丈夫だったですか?」
「大丈夫です、ありがとうございます。刀根です。妻も一緒です」
妻が一緒に会釈をした。
「レイコです」
「奥様も一緒に来られたんですね。それはよかった」
河野さんは嬉しそうに笑った。
僕はがんが見つかってから今回の入院までの経緯を簡単に話した。
「そうですか、それは大変だったですね」
河野さんは真剣にうなずくと、こう言った。
「これから私がお話することは、刀根さんにとって聞きなれないことかもしれませんし、受け入れることが難しいかもしれません。しかし、私がヒーリングをする際、どなたにもお話をさせていただいていることです。それをお話させていただいてもよろしいですか?」
「はい、もちろんです」
「まず初めに、身体と心とを切り離すことができない以上、どんな病気にも心が関係しています。生命には部分というものが存在しません。私たち人間は機械のように部品の集合体でできているわけではありません。機械は部品を取り替えれば直りますが、人間は全てつながっていますから、そんなことをしたら下手をすると死んでしまいます。ですから、どんな病気も全身病で、そして身体の一番弱いところに症状となって現れる、そんな考え方があります」
「なるほど、僕の場合はそれが肺だったんですね」
河野さんは微笑みながらうなずき、言った。
「身体はね、治り方を知っているのですよ」
「治り方を?」
「ええ、そうです。がんになったのは自分の細胞です。自分の細胞が変化してがんになったんです。ですから、がんも自分なんですよ。何か外からウイルスが入ってきたとか、異物が混入したとかいうことじゃなく、自分の細胞が変化したんです。がんに変化したのが自分の細胞なら、それを元に戻す方法を知っているのも自分の細胞なのです」
そういえば、同じようなことを寺山先生も言っていた。
「がんは敵ではありません」
「がんと戦うって言葉がありますけど、僕はさんざんがんと戦った結果、完敗しました」
僕は笑った。
「そう、がんは自分自身なのです。自分と戦っても勝てません。傷つくだけです」
「その通りでした」
僕はうなずくしかなかった。
「自分の中に敵を作ると、その敵はどんどん強くなります。負けまいとすればするほど、強くなるのです」
きっと僕の中のがんもそうだったんだろう。
いや、がんは自分の分身。
僕の分身だったらすごく意地っ張りで反抗的なやつだろう。
だからよけい消されるもんか、死ぬもんか、絶対に生き残ってやる、と頑張り続けるに違いない。
片やがんを消してやる、絶対に生き残ってやると戦いを挑み、がんのほうも絶対に消えるものか、絶対に生き残ってやると戦いに応じていたわけだ。
これじゃ身体の中が戦場になるだけだ。
「世間の多くの人は病気とは敵であり、克服すべき対象だと考えています。そして、病気になったとき、ほとんどの人が自分を犠牲者の立場に置きます。何で病気になったんだ、なんて運が悪いんだという具合に」
僕もそうだった。
なんで僕なんだといつも思っていた。
でもそれは魂の計画だったと今では理解していた。
「その人の生活習慣や心の状態とは全く無関係の病気など存在しません。病気という結果から見れば、犠牲者の立場を取りたくなるかもしれませんが、病気の原因から見れば、多くの場合、自分が加害者であることに気づいていないんです」
「自分が作り出しているんですね」
「そうです。自分の身体に痛みや病んだところがあるとき、そこに意識がいくことは自然なことですね。でも、そこからのアプローチの仕方は、2種類あるかもしれません。一つは病みを問題視してそれと戦い、それのみを取り去ろうとするアプローチです。もう一つは痛みや病みを意識しつつも、それを入り口にして魂の声を聞き、人生そのものに癒しをもたらそうというアプローチです。前者が局所への直接的、直線的、二元的、分析的なものに対し、後者は全体的、球体的、多次元的、直感的なものです」
「なるほど......全体的、球体的、なんか素敵ですね」
「痛みや病気は本当の自分とつながるためのガイドなんですよ。魂とより深くつながり、本当の人生を歩むための最高のチャンスなのです」
「チャンスか......」
僕は寺山先生のワークショップで引いた"the purpose(目的)"というカードを思い出した。
がんは僕に人生の目的を教えるために生まれたのかもしれない......。
少しがんが愛おしくなった。
「全体の視点で局所の現象を捉えることは大切ですね。それには視界を高くする必要があります」
「視界を高く、ですか?」
「はい、そうです。例えば家を想像してみてください。私たちは普段、1階で過ごしています。1階だから窓の外は遠くまで見えません。目の前に家でも建っていたら壁しか見えないでしょう。でもこの家にはエレベーターがあるとします」
僕はエレベーターを想像した。
「エレベーターに乗って2階に上がって、窓から外を見ると少し遠くまで見えます」
なるほど、少し遠くまで見えた。
「エレベーターはどんどん上がります。5階まで上がって外を見れば、隣の家で遮られていた景色が、眼前に広がります。10階、20階、30階......さらに昇っていきます。高くなればなるほど、遠くまで見えるようになるのです」
1階では見えなかった景色が眼前に広がった。
もう遠くまで見える。
富士山だって見える。
「目の前の出来事で感情的に混乱した狭い視界の状態が1階です。目の前のことは少し横に置いて、2階に上がってみると、問題の向こう側が少し見えたりします。10階まで上がってみると、問題の向こう側がハッキリと見え、作り出している原因がわかったりします。30階まで上がってみると、そもそも、それが問題にすら見えなくなったりします。50階まで上がると、それは自分が成長するために、自分で作り出したものだということがわかったりするんです」
「なるほど」
やはりがんは自分でこの壁を越えるために、自分が作り出したものだったんだ。
間違いない。
だからこそ、僕は越えられる。
僕は50階の視界から全てが見えた気がした。
「ではお話はこれくらいにして、ぼちぼち始めましょうか」
河野さんがヒーリングに集中するために、妻は1時間ほど席を外すことになった。
「ここにうつぶせになってください」
僕は施術用のベッドの上に横たわった。
「あとは、リラックスしてくださいね。寝てしまってもかまいませんから」
河野さんは微笑みながらそう言うと、部屋の照明を落として薄暗くした。
足首に河野さんが触れたことがわかった。
とても軽いタッチだった。
揉んだり押したりするんじゃないのかな?
山中さんの手当てヒーリングよりも軽かった。
そんなことを考えているうちに、気持ちよくなって、いつの間にか寝落ちしてしまっていた。
「はい、このくらいにしましょう」
河野さんの声で目を覚ますと、あっという間に1時間が経過していた。
その声に合わせたように妻が部屋に入ってきた。
部屋の照明をつけると、河野さんは言った。
「お疲れ様でした。全体的に左側のエネルギーが滞ってました」
「よくわかりますね」
そうだった。
がんの原発巣も左側だし、首も左側のリンパに転移していたし、股関節も坐骨もみんな左側だった。
「脳腫瘍も左側ですね」
すごいな、わかるんだ。
「僕の身体はどんな状態でしたか?」
「そうですね、お身体はやはり病状的に弱っているところもありましたが、全体的な生命エネルギーはとても活発でした」
活発と聞いて、ちょっと嬉しかった。
今度は河野さんが聞いてきた。
「ありがとうございます。これから入院されるんですよね。今、どんなご心境ですか?」
「そうですね、えーっと、なるようになるというか、任せるというか、ゆだねるというか、でもまあ大丈夫だろうっていうか、そんな気分ですね。すごく気楽です」
「サレンダーですね」
サレンダー......明け渡す...手放す...ゆだねる...これが本で読んだサレンダーってやつなのか......。
河野さんは微笑んで言葉を続けた。
「退院したらぜひ南伊勢に来てください。自然がそのまま残っているところです。自然のエネルギーを浴びて弱った身体を療養されるとよいと思います。私が小さなロッジを借りていますので、空いていれば1週間でも2週間でも好きなだけいていただいていいですよ。料金も格安にしときます」
「いいですね、行きたいです」
南伊勢か、行きたいなぁ。
妻と2人で自然の中に行ってみたい。
2人で緑の中を歩きたい。
僕は南伊勢に呼ばれている気がした。
「今日は本当にありがとうございました」
河野さんと別れてから、ふと携帯を見ると、どこからか留守電が入っていた。
さっそく折り返しかけ直す。
「お電話をいただいた刀根と申しますが......」
そこは東大病院だった。
「ああ、刀根さんですね。連絡が取れてよかった。ベッドが空きましたので、明日入院してください」
こうして翌日の13日に入院が決まった。
東大病院で井上先生に会った8日から、不思議なことに予定が向こうからどんどん入ってきた。
9日にフジコさんに会い、魂の計画に気づき、10日には両親に会って悲しみを排出した。
11日には恵子さんに会って過去生の癒しに気づき、12日に河野さんに会った。
それはまるで神様が時間割を組んだように、僕には感じられた。
僕は根拠なく、確信をした。
「こんなことが起こっているんだ。完全に流れに乗っている。だから、間違いない。絶対に治る。僕は、死なない」