なぜこんなことに...。僕が追い込まれた、惨めな「がん離職」/続・僕は、死なない。(16)

「50歳での末期がん宣告」から奇跡の生還を遂げた、刀根健さん。その壮絶な体験がつづられた『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)の連載配信が大きな反響を呼んだため、その続編の配信が決定しました!末期がんから回復を果たす一方、治療で貯金を使い果たした刀根さんに、今度は「会社からの突然の退職勧告」などの厳しい試練が...。人生を巡る新たな「魂の物語」、ぜひお楽しみください。

なぜこんなことに...。僕が追い込まれた、惨めな「がん離職」/続・僕は、死なない。(16) ぼくしな15.jpg

会社を辞めることを伝える

1月15日、東大病院へCT撮影に行く前に会社に立ち寄った。

僕は、自分の決断を社長に伝えようと思っていた。

なによりも、仕事についての不安定な気持ちに、僕自身がもう耐えられなかった。

今の宙ぶらりんな状況に決着をつけたかった。

このままこの中途半端な状況で2月を迎えるなんてこと、僕には出来なかった。

早く気持ちを定めて置きたかった。

これは仕事のことでもあるけれど、なによりもストレスが酷くて、体調にもろに影響が出ていたから。

「こんにちは」

「いらっしゃい」

軽い雑談の後、僕は切り出した。

「いろいろ考えたんですが、やっぱり会社を辞めることにしました」

「えっ?」

社長は驚いて僕を見た。

「社長が提案してくれた、3番目の完全フリーという形で行こうと決めました」

「...ずいぶん急ね」

「ええ。年末年始に僕なりに考えた結果です」

「急に言われて、私もびっくりしちゃったわ。今日そんな話になると思ってなかったから」

「急ですみません」

「それを決めるのに色々とあったでしょう。そのあたりの話を、じっくり聞いてあげられなくてごめんなさい」

社長は申し訳なさそうに言った。

「いえ、大丈夫です」

「朗報もあるわよ。色々調べたら失業保険を受けられそう」

実は社労士の中江さんからも、保険がおりそうだという連絡をもらっていた。

「そうなんですね、助かります。退職理由は会社都合にしていただくと助かります。ま、会社都合なんですけど」

「はい、分かりました」

晴れた空の下、僕は会社を後にした。

気分はすっきりと晴れ渡っていた。

目の前で閉まっていた扉が開き、そこから気持ちのよい風が僕に吹いているように感じた。

さあ、これで一歩前進だ。

まだ先は全然見えないけれど。

とりあえず、失業保険も出るみたいだし。

そう、今、本も書いているし。

自分で自分の人生の方向を決めるって、何て気持ちがいいんだろう。

翌日、置いてあった書籍や資料などを整理するために、僕は会社に行った。

同僚は僕にどう言葉を掛けてよいのか分からないのか、言葉は少なくて、事務的なこと以外ほとんど話しかけてこなかった。

僕はひとり黙々と、私物をカバンとダンボールに黙々と詰め始めた。

誰に何も言われていないにもかかわらず、なんだか僕は自分のことを敗残者のように感じていた。

惨めだ...。

なんで、こんなことになってしまったんだろう。

これがいわゆるがん離職ってやつなのか。

同僚が事務的に話しかけてきた。

「刀根さんが会社で作った資料は会社のものですので、全て持ち出し禁止です」

そうか、僕が作った心理テストや資料も全部置いてくのか。

「刀根さんが会社で交換した名刺も、全部置いていってください。会社の財産です」

そうか、名刺一枚持ち出せないのか。

「それから、会社の客先に、今後一切営業をかけるのは止めてください」

僕の個人的つながりで持ってきた仕事も、今では会社の客先か。

じゃあ、4月から自分の仕事を立ち上げようと思ったら、ほんとに全くのゼロ、白紙から始めなきゃだな。

12年間の仕事で作った人脈も、全く使用禁止ってことなのか。

今まで作ったものや人脈も、全て会社に押さえられてんのか...。

いや、参ったな、どうしようか?

目前にまた、大きな壁がずどんと立ちはだかった気がした。

僕は、まるで自分の手足がもがれたように、どんどん力が抜けていった。

果たして僕は、4月から生活していけるのだろうか?

実際、4月になって何もなかったらどうしよう?

職安に行って仕事を探しても、希望するものがあるとは思えない。

体力を使う身体系の仕事は、まず無理だ。

今までの僕の人脈は、全て会社に押さえられてしまっている。

こういうのを、八方塞がりっていうんだろうな。

本を書いているって言っても、それが出版できるかはまだ分からない。

先は不透明だ。

原稿料だってもらってるわけじゃない。

2日後の1月18日、CTと血液検査の結果を聞くために東大病院に行った。

実は、かなり心配だった。

戦力外通告の日から3か月近く不調が続いていて、ひどい頭痛も2、3日前まで続いていた。

正直に言うと、脳腫瘍の再発を覚悟していた。

「残念ですが...再発しました」

井上先生がCTを見ながら深刻な顔で言う。

あ~、やっぱり...。

僕はショックを受け止めるリハーサルまで、シュミレーションしていた。

診察を待つ間、ドキドキと心臓の鼓動が高鳴った。

あ~やっぱり...。

いやいや、大丈夫だよ、きっと再発していない、大丈夫だって!

僕の心は揺れ動いていた。

手元の呼び出し受信機が鳴る。

「刀根健さん、診察室にお入りください」

いよいよ診察の順番が来た。

僕はドキドキしながら、診察室に入った。

CT画像を見ていた井上先生はいつもと同じ感じで言った。

「体調はどうですか?」

「はい、実はあまり良くありません。CTはどうでしたか?」

「ええ、問題ないですね。ほら、きれいなもんです」

パソコン画面には、前回よりもさらにきれいになった僕の肺が写し出されていた。

脳も全く問題はなかった。

おお!やった!

安堵感が押し寄せ、身体が一気にゆるんだ。

「CTに写ったがんはもう霞みたいになってますね。きっとこれはかさぶたみたいなものでしょう。活動しているとは思えません」

井上先生の言葉を受けて、僕は、やっと確信することが出来た。

そう、それはステロイドをやめてから初めての感覚だった。

このダルさは、がんとは関係ない。

僕の心配をよそに、身体はどんどん回復してきている。

そう、僕はきっと、完治する。

【次のエピソード】「嫁が息を引き取りました」思わず言葉を失った...ある友人からの報告。/続・僕は、死なない。(17)

【最初から読む】:「肺がんです。ステージ4の」50歳の僕への...あまりに生々しい「宣告」/僕は、死なない。(1)


なぜこんなことに...。僕が追い込まれた、惨めな「がん離職」/続・僕は、死なない。(16) shoei001.jpg50歳で突然「肺がん、ステージ4」を宣告された著者。1年生存率は約30%という状況から、ひたすらポジティブに、時にくじけそうになりながらも、もがき続ける姿をつづった実話。がんが教えてくれたこととして当時を振り返る第2部も必読です。

 

刀根 健(とね・たけし)

1966年、千葉県出身。OFFICE LEELA(オフィスリーラ)代表。東京電機大学理工学部卒業後、大手商社を経て、教育系企業に。その後、人気講師として活躍。ボクシングジムのトレーナーとしてもプロボクサーの指導・育成を行ない、3名の日本ランカーを育てる。2016年9月1日に肺がん(ステージ4)が発覚。翌年6月に新たに脳転移が見つかり、さらに両眼、左右の肺、肺から首のリンパ、肝臓、左右の腎臓、脾臓、全身の骨に転移が見つかるが、1カ月の入院を経て奇跡的に回復。現在は、講演や執筆など活動を行なっている。

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『僕は、死なない。 全身末期がんから生還してわかった人生に奇跡を起こすサレンダーの法則』

(刀根 健/SBクリエイティブ)

2016年9月、心理学の人気講師をしていた著者は、突然、肺がん告知を受ける。それも一番深刻なステージ4。それでも「絶対に生き残る」「完治する」と決意し、あらゆる代替医療、民間療法を試みるが…。当時50歳だった著者の葛藤がストレートに伝わってくる、ドキドキと感動の詰まった実話。

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