「病気の名前は、肺がんです」。突然の医師からの宣告。しかもいきなりステージ4......。2016年9月、50歳でがんの告知を受けた刀根 健さん。「絶対に生き残る」「完治する」と決意し、あらゆる治療法を試してもがき続ける姿に......感動と賛否が巻き起こった話題の著書『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)より抜粋。21章(全38章)までを全35回(予定)にわたってお届けします。
2017年の年が明けた。
よし、今年こそいい年にしよう。
今年は上がるのみ。
がんを完治する。
完治すれば自然に道は開けてくる。
頑張るぞ、僕はやる、僕はできる。
頼むぜ、僕の身体よ!
正月に家族で里帰りをした。
両親は僕の体調をとても心配していた。
僕はつとめて明るく振る舞った。
「大丈夫、絶対に治るから」
かすれ声でそう言って笑ってみせた。
「食事はどうなの?」
母が聞く。
「うん、今回は野菜中心で行くよ。みんなはおせち料理を遠慮なく食べてね。自分の分は持ってきてるから大丈夫」
食事制限をしている僕専用に、妻が野菜中心の食事をタッパーに入れてくれていた。
大学3年の長男がチェロをケースから出した。
彼は高校時代に弦楽部に所属して、チェロを弾いていた。
母がウクレレを弾いていたので、彼と母のアンサンブルを聴いてみたかった。
「ね、2人で弾いてくれる?」
昼食後、僕は2人にリクエストをした。
「いいわよ」
母が楽譜を長男に渡すと、長男がたどたどしく弾きはじめた。
赤とんぼや夕焼け小焼けなどの童謡だった。
母がそれに合わせてウクレレで伴奏しながら歌い始めた。
来年、僕はもうここにいないかもしれない。
もう二度とこの光景を見ることはできないかもしれない。
僕は写真だけになって仏壇に飾られているかもしれない。
そう思うと目頭が熱くなった。
今日ここに来れて、2人のアンサンブルを聴くことができて、本当によかった。
いいものが見れた。
僕は誰にも気づかれないように涙をぬぐった。
実家から帰って来た後、長男が言った。
「父さん、治ったら美味しいものを食べに行こうね。何食べたい?」
また、涙が出そうになった。
ここ最近、妙に涙もろくなっていた。
そして里帰りの後、胸の痛みが激しくなり、声も完全に嗄れ、スカスカの声しか出せなくなった。
体感的な病状は一進一退といった感じだった。
胸は相変わらずチクチクやズキズキと痛みを発してはいたが、山中さんのヒーリングを受けた後はすっきりと治まるのだった。
僕は山中さんのヒーリングの回数をもっと増やしたかったが、いかんせんいつも予約がいっぱいで思ったほど行くことができなかった。
僕が大富豪なら彼を大金で個人的に雇って、毎日何時間もヒーリングしてもらうのに......なんてことを思ったりした。
1月下旬、首の左側に米粒大のしこりがあることを発見した。
なんだろう?
左首の下部のリンパの部分だ。
焦ってネットで調べる。
がんがリンパに転移するとこの部分にシコリができやすいと書いてあった。
ウィルヒョウ転移というらしい。
まじかよ、転移したのかよ。
しかし、ある書籍に"転移は原発がんが最後の悪あがきで、外に逃げ出すときに起きる症状です"と書いてあった。
おおそうか、これは治っていく過程に違いない、治っている証拠なんだ。
僕は意識をポジティブに持っていった。
数日後、食事療法のドクターに聞いてみた。
「ここにシコリができているみたいなのですが......」
「うん、ありますね」
ドクターは僕の首を触ると言った。
「転移って、原発がんが逃げ出す悪あがきって本で読んだんですが......」
彼は冷たく言い放った。
「そんなことはありません。転移は転移です」
もうちょっと、優しく言ってほしかった。
その後しばらくしてから、今度は左のお尻が痛くなってきた。
硬い椅子に座ると左の坐骨がズキズキする。
きっと痩せてお尻の肉がなくなったからだろう。
自分で自分にそう言い聞かせた。
しかし、次第に電車やバスの座席でも痛みが激しくなってきた。
家では使い古した座椅子では耐え切れなくなり、厚めの低反発クッションのものに買い替えた。