ついに出た、ドクターからの「がんの寛解」 宣言。/続・僕は、死なない。(35)

「50歳での末期がん宣告」から奇跡の生還を遂げた、刀根健さん。その壮絶な体験がつづられた『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)の連載配信が大きな反響を呼んだため、その続編の配信が決定しました! 末期がんから回復を果たす一方、治療で貯金を使い果たした刀根さんに、今度は「会社からの突然の退職勧告」などの厳しい試練が...。人生を巡る新たな「魂の物語」をお届けします。

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寛解

4月25日、東大病院へ行った。

3日前の22日に3ヶ月ごとのCTを撮影したので、その結果を聞くためだった。

その頃ころ僕は、骨転移を改善するカルシウムの注射"ランマーク"を止めて5ヶ月が経っていた。

僕はなるべく身体に薬剤を入れたくなかったので、井上先生と骨を専門に見ていただいている整形外科の先生に「ランマーク、止めていいですか?」とお願いをしていた。

そういう経緯で、ランマークを止めてから、5ヶ月が経っていた。

いつもと同じように井上先生が聞いた。

「体調はいかがですか」

「はい、元気です。全く問題ありません」

「おお、そうですか、良かったです。CTも全く変わらず、きれいなまんまです」

「この筋は消えないですね」

僕は原発のがんがあったところに薄く残っている白い筋を指した。

「ええ、これはがんの跡、かさぶたみたいな感じでしょうね。そういうものもCTでは写るんですよ」

「じゃあ、今、僕の身体にはがんはない、と考えてもよいのでしょうか?」

「はい、細胞レベルの小さなものは分かりませんが、CT上ではがんは見当たりませんね」

「それじゃ、寛解、と言ってもいいでしょうか?」

「はい、そうですね。寛解に近いレベル、いや寛解と言っても差し支えないでしょう」

やった!

ついにドクターから「寛解」の言葉が出た!

僕はついに"病院"から、「寛解」をもらった。

「では、アレセンサを止めても大丈夫ですかね?」

井上先生が笑いながら言った。

「いえいえ、そういうわけにはいきませんね。今はアレセンサでこの状態を維持している状態と言えますので」

「では、アレセンサの量を減らすことは出来ますか? 例えば、半分にするとか?」

「いえ、それもやらない方がいいでしょう。動物を使った薬の治験で、がん細胞が再活動する条件の一つに薬剤の分量を減らす、というものがあります。全てではありませんがそういう結果もありますので、それも危険だと思います。私としては認めることは出来ません」

「分かりました」

井上先生の話は、いつもながら明快で分かりやすかった。

僕は井上先生の言葉に素直に従った。

これも、サレンダーなのだ。

以前、殺傷系の抗がん剤に対して感じた直感的な"やりたくない"という気持ちとは違って、「止めることで」抗がん剤を飲んでいなくても寛解状態を維持している"僕"、西洋医療に頼らなくても元気でいる"僕"、そういう"僕"ってすごいでしょ、とアピールしたい気持ち。

それは"自我/エゴ"以外の何物でもない。

だから、それには従わない。

そのころ、そうやって自己をアピールしたがる"僕"の声は、とても小さくなっていた。

「先生、実は今、がんからの生還体験の本を書いていまして...」

「おお、それはすごいですね」

「井上先生のことも出てくるのですが、いいですか」

「あ、はい、まあ」

めずらしく井上先生が戸惑った。

「大丈夫です。仮名にしておきますから」

「あ、すみません、よろしくです」

こうしてついに、僕は「寛解」した。

全てのがん患者が目指すところ、それは「寛解」。

いろいろなことがあったし、いろいろな道を通った。

しかし、こうしてドクターから「寛解」の言葉をもらうことが出来た。

あとはこのまま、この状態を維持していけばいいんだ。

「アレセンサの次の薬ももう出来ていますから、もし万一再発しても、とりあえず安心ですね」

「そうなんですか、すごいですね」

父の言うように、西洋医学の進歩、発達はすごい。

でも...。

「先生、でも僕は再発はしませんよ」

「と、言いますと?」

井上先生が不思議そうに僕を見た。

「僕はこのアレセンサの最長不倒記録を作るつもりです」

「...」

「この薬の服用を止めることが出来ないのであれば、再発せずにずっとこのまま、あと30年くらいは飲み続けますよ。そして死ぬときはがん以外の死因で死にます」

井上先生はそれに応えずに、笑った。

病院を出ると、春の風が僕を祝福しているように、爽やかに頬を撫でていった。

同じ頃、ついに本が書き上がった。

題名は、どうしよう?

いい案が浮かばなかった。

近所のコメダ珈琲で吉尾さんと打ち合わせたとき、吉尾さんは言った。

「『僕は、死なない』というのはどうですか?」

「えっ?『僕は、死なない』ですか?いや、でも僕はいずれ死ぬんですけれど...」

「刀根さんの原稿を読ませていただいていて、特に刀根さんがサレンダーして、僕は治る、と確信するシーン、そこから『僕は、死なない』っていう題名が湧いてきたんです」

「おお、そうだったんですね。確かにあのとき、"僕は治る""僕は死なない"って自然に思いましたし、確信しました」

「いかがでしょう?」

「ええ、いいですね。僕では決して思いつかない題名です。さすがです」

「題名的にもインパクトがあっていいと思います」

「では、それで行きましょう!」

「はい、よろしくお願いいたしします」

僕は頭を下げた。

「それで、以前いただいた、刀根さんが昔書かれた原稿なんですが...」

「はい...」

「全部ではないのですが、いくつかを読ませていただいて、これもとても素晴らしい、面白いと思いました。こちらもぜひ、今後出版を目指してご相談できれば、と考えていますが、いかがでしょうか?」

「いえいえ、とても光栄です。がんからの体験も書き直したら全く違う完成度、クオリティになったように、今あの原稿を書き直すと、もっともっと深い内容になるような気がします。ぜひ、よろしくお願い致します」

「こちらこそ、よろしくお願い致します。私は魂を揺さぶるようなエンターテイメントを出版したかったんです。そういう意味で、私は刀根さんに出会えてラッキーです」

「僕もです。お互いにラッキーですね!」

こうして僕の本の題名が決まった。

『僕は、死なない。』副題として『全身末期がんから生還してわかった人生に奇跡を起こすサレンダーの法則』となった。

【次のエピソード】がんが気づかせてくれた...。がんになる前の僕の「歪み」/続・僕は、死なない。(36)

【最初から読む】:「肺がんです。ステージ4の」50歳の僕への...あまりに生々しい「宣告」/僕は、死なない。(1)


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50歳で突然「肺がん、ステージ4」を宣告された著者。1年生存率は約30%という状況から、ひたすらポジティブに、時にくじけそうになりながらも、もがき続ける姿をつづった実話。がんが教えてくれたこととして当時を振り返る第2部も必読です。

 

刀根 健(とね・たけし)

1966年、千葉県出身。OFFICE LEELA(オフィスリーラ)代表。東京電機大学理工学部卒業後、大手商社を経て、教育系企業に。その後、人気講師として活躍。ボクシングジムのトレーナーとしてもプロボクサーの指導・育成を行ない、3名の日本ランカーを育てる。2016年9月1日に肺がん(ステージ4)が発覚。翌年6月に新たに脳転移が見つかり、さらに両眼、左右の肺、肺から首のリンパ、肝臓、左右の腎臓、脾臓、全身の骨に転移が見つかるが、1カ月の入院を経て奇跡的に回復。現在は、講演や執筆など活動を行なっている。

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『僕は、死なない。 全身末期がんから生還してわかった人生に奇跡を起こすサレンダーの法則』

(刀根 健/SBクリエイティブ)

2016年9月、心理学の人気講師をしていた著者は、突然、肺がん告知を受ける。それも一番深刻なステージ4。それでも「絶対に生き残る」「完治する」と決意し、あらゆる代替医療、民間療法を試みるが…。当時50歳だった著者の葛藤がストレートに伝わってくる、ドキドキと感動の詰まった実話。

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