認知症が進み、誰か分からなくなり...母代わりだった祖母との思い出

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ペンネーム:みすず
性別:女
年齢:55
プロフィール:私は、55歳独身。母方の祖母は優しく、私の第二の母の存在でした。今も祖母の事を思い出すと目頭が熱くなります。

※ 毎日が発見ネットの体験記は、すべて個人の体験に基づいているものです。

◇◇◇

母方の祖母は、私にとって第二の母みたいな存在でした。祖母は54歳の頃、私が生まれる5年ほど前からリウマチを患い、歩くことができなくなったそうです。自由に外を歩けず、家の中を這いながら移動するのが精一杯でした。

そんな祖母は、私をとても可愛がってくれました。私の自宅と祖母までの家は、歩いて10分位の距離。母が仕事で忙しく、私に構う暇がなかった分、小さい頃から小学校の低学年の間は、毎日のように遊んでくれました。祖母は手芸がとても上手く、人形の洋服や布団をあまり布で作ってくれました。また、私の学校の話を最初から最後まで聞いてくれたものです。

祖母は、歩けないので外に出られないこともあり、祖父から毎月少しだけ小銭をもらっていたようです。その中からいつも、お菓子を買っておいでと50円から100円をくれました。私は、いつも走って、祖母の家の近くの駄菓子屋さんでお菓子を買ってきて、「ばあちゃん、お菓子買ってきたよ。一緒に食べよう。」と言いました。しかし、祖母は、いつもにっこり笑いながら「ばあちゃんはいいから早く食べなさい」と言っていました。今から思えば、祖母が食べたらすぐになくなると思っていたのでしょう。

また、お祭りなどには、祖母はおはぎやかしわ餅をよく作ってくれました。私は、特にかしわ餅が大好きでした。お餅に葉をのせるお手伝いが楽しみでもあり、祖母の作るかしわ餅は、餅の皮が薄く、中にはあんがいっぱいで、出来立てをいつも食べる事ができました。その味と祖母が一生懸命作っている姿は、今も忘れる事はありません。

私は小学校高学年になっていくに従い、友達と過ごすことが多くなり、段々と祖母の家に行かなくなっていきました。そんな中学2年生の夏頃、父と母からなるべく祖母の家に行くようにと言われました。なぜか分からなかったのですが行ってみると、祖母はもう布団から起きることができなくなっていました。祖母は「よくきてくれたね」と、ニコニコして迎えてくれました。その日帰って、母が「段々身体が衰弱しているから、もう起きることができない。それに最近、認知症の症状も出はじめたから、ばあちゃんがあなたのことがわかるうちに行っときなさい」といわれました。母は祖母の家に頻繁に行き、祖母の世話をするようになりました。それから、私も祖母の家に行くようになりましたが、段々と認知症が進み、私が誰かもわからなくなっていきました。

そんな中学2年の寒い2月、学校から家に帰ると誰もいなく、テーブルの上に早く祖母の家に来るようにと母からの置手紙がありました。すぐに祖母の家に向かうと、掛かりつけの医師がこられていて、祖母はすでに永眠したところでした。母が泣きながら「ばあちゃんが、今、亡くなったよ」と言われた時、祖母がこの世にから旅立った現実を受け入れることができなく、涙さえ出ませんでした。

葬儀が終わり、火葬場で祖母の棺が焼却炉に入っていく時に、もう祖母とはこれが最後と実感しました。その後、火葬場の外に出た時に煙突から祖母が火葬されている煙が立つのを見て、優しかった祖母の笑顔が浮かびました。私は祖母との永遠の別れに涙がぽろぽろとこぼれてきました。

72歳で永眠した祖母。歩くことができなくなった54歳からの18年間。54歳と言えば、今の私と同じ位の歳、私は自由にどこにでも行けるのに、祖母は、籠の中の鳥のように家の中だけで暮らしてきた18年間。私が、運転免許を取得するまで、元気にしていてくれたら、車でどこにでも連れていけたのに、そう思うと今も目頭が熱くなります。

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