DVモラハラ夫との別居も7年目に入りました。
最初はロフトがあったものの6畳ワンルームで、高校生の息子と二人暮らしをスタートしました。
現在は訳あり格安物件の2DKで暮らしていますが、いよいよ息子が巣立つことになり、それにともない私もワンルームに引っ越すことになりました。
バタバタと忙しい時は、過去を思い出すひまもありません。
現在、DVモラハラ夫との23年間の異常な結婚生活を振り返って連載しています。
過去のつらい経験を整理していく良い機会にもなっています。
前回の記事:「使えない嫁」と罵られ鉄拳も...! 災難続きのモラハラDV夫の厄年、私も毎日怯えていた/chii
今日は忘れることができない次女の死と、夫の言葉について書いていこうと思います。
義父にあらゆる面で依存していた夫は、義父の死に相当ショックを受けていました(3カ月の闘病のち肝臓がんで亡くなる)。
毎日暗ーい部屋で、義父の遺影とお骨を前にボッーとしていました。 喪失感がいっぱいでどう生きていいのかもわからなかったようです。
夫は自分の父親にも、暴言をはいていました。
つまり義父もモラハラを受けていたのです。
あたる相手がいなくなったのも、どうしていいかわからない理由の一つだったと思います。
その後、矛先は私にむかってきました。
少しして私は二人目の子を身ごもりました。
男の子誕生を心待ちしていた夫ですので、男の子が産まれれば、家庭は平穏になるかもしれないと期待していました。
妊娠中は具合が悪くなるくらいのつわりが続きましたが、後期になるとよくお腹の中で動く子でした。
元気な子だと勝手に思っていたのに、検診にいくと主治医はいい顔をしません。
エコーを見て、内臓に疾患がある可能性が高いことを伝えられました。
産まれてすぐに緊急手術になるかもしれない、そんな言葉も告げられていたのです。
長女が帝王切開での出産でしたので、その時も帝王切開で産むことが決まっていました。
臨月になり4歳だった長女の預け先なども手配して私は出産にのぞみました。
帝王切開の手術は、局部麻酔なので意識はあります。
お腹を切りだしたのがわかり、もうすぐ会えると期待して待っていました。
ところが、赤ちゃんを取り出したのがわかったのに、泣き声がしません。
そしてバタバタとどこかへ連れ去る音が聞こえました。
病室で報告を待っていた私の元へ夫がやってきました。
「女の子だったよ~亡くなったって」と笑みさえ浮かべていた夫の言葉に、頭を殴られたような衝撃を受けました。
亡くなったんだ...でも、自分の子が亡くなったのになんで嬉しそうなの?
夫を見てゾッとして、悲しくなりました。
今でも後悔しているのは、次女に会わせてもらえなかったことです。
抱っこどころか、会うこともゆるされなかったのです。
夫は会いましたが、すぐに荼毘にふすことを承諾してしまいました。
私が亡くなった次女に会ってもショックを受けるだけだからという理由でした。
この世に生を受け、30分で亡くなったそうです。
夫の話によると長女にそっくりな女の子で、ぷくぷくと太っていたそうです。
窓の外は桜が満開だったので、さくらと名付けました。
個室に入院していた私ですが、看護婦さんが30分おきに声をかけにきました。
よからぬ行為をしないか、見張っていたのかもしれないです。
私は死を選ぶことなんかしません、長女がいましたから。
個室でただ身体の回復のために過ごしていました。
どこからか赤ちゃんの泣き声が聞こえてきて、さすがにつらかったです。
二日後くらいだったか、次女は小さな骨壺に入って私の元に帰ってきました。
骨壺を抱きしめて、はじめて涙があふれました。
長女の時は「女はいらない」、次女の時は亡くなったことを笑顔で報告。
この夫の言動は一生忘れることはできないと思います。
そんなことがあっても、私はなんとかこの家庭を守りたいと願っていました。
まだ男の子を産めば、DVモラハラ夫は変わるかもしれない、そんな期待を持っていたのです。
次女の死から二年後、私は同じ病院の同じ病室に入院し、ほぼ同じ時期に長男を産みました。
窓の外には、桜が舞っていて、次女さくらが生まれ変わって私の所にきてくれたって思いました。
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