<この体験記を書いた人>
ペンネーム:ウジさん
性別:男
年齢:59
プロフィール:2011年3月11日、私の町も大きな揺れで大混乱となりました。そんな中で奇妙なことが起きました。
2011年3月11日と言えば、東日本にお住まいの方なら、誰でも覚えている日だと思います。
私の住む町も午後2時45分に大きな揺れに見舞われました。
生きた心地がしない、とはまさにあのようなことを言うのでしょう。
内陸なので津波こそ免れましたが、町内はあちこち崩れたり、倒れたりで大騒ぎでした。
揺れそのものも大変でしたが、その後の対応はさらに大変でした。
3月だというのに寒い日でしたが、停電になったために電気を使う暖房は一切使えません。
我が職場である役場は避難場所にもなっていたので、各部署の石油ストーブをかき集めて、ホールを必死に温めたのを覚えています。
私も妻(当時46歳)も役場に詰めての仕事となり、家に帰ることもできませんでした。
実はこの日は息子(当時13歳)の中学校の卒業式があり、午前授業で家にいるはずでした。
娘(当時16歳)も高校が受験準備のための半休で在宅していたはずです。
家に何度か電話をしてみましたがどうにもつながりません。
「回線が混んでるらしい」
「停電で携帯の基地局も落ち始めてるらしいよ」
そんな噂を聞き、メールならどうかと思い、5分おきぐらいに出してみました。
しかしメールサーバーもキャパオーバーなのか、未達のメッセージが返ってくるばかりです。
「ああ、だめだ、携帯死んだぞ」
誰かが叫ぶのを聞いて携帯の画面を見ると「圏外」の表示が出ています。
いよいよ携帯の基地局が電力切れしたのでしょう。
いつもならすぐに復旧する停電も、この日はなかなか復旧しませんでした(結果的に4日間も停電していました)。
部署の違う妻とは会うこともできないほどの混乱状態です。
思い切って抜け出して家に行ってみようかとも思いましたが、役場の職員みんなが大変なときにそんな無責任なこともできません。
おそらく大丈夫だろう、いや、でも、もしかしたら...と悶々としながら信じて作業を続けるしかありませんでした。
「携帯局に蓄電池が配置されているらしい」
という話もあったので、携帯を見て表示を確認していたのですが、ずっと「圏外」のままでした。
やはり田舎は後回しなんだろうな、とあきらめていた午後8時頃のことです。
ブブッ、と突然携帯が振動しました。
あわてて画面を見ると、新着メッセージのアイコンがあり、急いでメールを開きました。
それは娘からのもので「2人とも無事、家も大丈夫です」と記されていました。
いやあ、良かった、と胸をなでおろし、返事を出そうとして操作していて気が付きました。
「あれ? 圏外のままだ...」
てっきり蓄電池で携帯局が復活したものと思ったのですが、そうではないようです。
「電波が弱いから安定してないのかな?」と思い、頻繁に画面を確認しましたが変わりはなく、電話もメールも相変わらずつながりません。
実際私の周囲で私以外にメールなどがつながったという話はなく「なんで、ウジさんだけ...」と不思議がられる始末でした。
結局、「圏外」表示が消え、普通に携帯でのやり取りができるようになったのは復旧作業が進んだ翌日のことでした。
完全停電中の町で、突然私の携帯にだけ電波が届いた理由は分かりません。
「そこの基地局に蓄電池が届いたのは地震の翌朝だったので...そんなこと、ありえないはずですけどねえ...」
落ち着いた頃に携帯電話会社の人に参考までにと聞いてみましたが、首をひねるばかりです。
奇跡とも言うべきメールの着信は、今でも我が家の語りぐさになっています。
関連の体験記:「じゃあ、またね」別れ際、ずっと手を振っていた彼女。見送ってくれた彼女の体はもう...
関連の体験記:主治医の"神対応"が母に最期まで力を与えてくれた。患者とその家族に寄り添い続けてくれた医師
関連の体験記:亡くなった父が引き止めてくれた...? 崩落事故の直前、お墓の横に見えたあの人物
- ※
- 健康法や医療制度、介護制度、金融制度等を参考にされる場合は、必ず事前に公的機関による最新の情報をご確認ください。
- ※
- 記事に使用している画像はイメージです。