僧侶が読むお経にだけ功徳がある訳ではない
――住職を心配したヤンキー君は「自分が代わりに行く」と言っていますが、それはできるのでしょうか? そもそも、お坊さんがお経を読むことにはどんな意味があるのでしょうか?
近藤丸さん(以下、近藤丸) 「『お経を読むこと』の意味について、仏教の歴史の中でさまざまな解釈がされてきました。私は浄土真宗本願寺派という宗派の僧侶なので、浄土真宗の場合について、自分なりに学び考えたところを述べてみようと思います。とはいえ、多分に私の思いや個人的意見や解釈が入っていますので、その点を加味して読んで頂けたら幸いです。また、私の意見を絶対と思わずに、他の僧侶の方や学者の方の意見を聞いたり、ご自身でさまざまな仏教書に当たって調べたりしてもらえたらと思います。
別の回でもお話させていただいたのですが、お経はブッダが人々の悩みや苦しみに寄り添う中で語った言葉を、後の人たちが書き留めたテキストのようなものです。ですから法要や日々のお参りの中でお経を聞く事の主な意味は、私たちが今ここで教えを聞き、大切なことに目覚めていくということになります。
――漫画などでお経を読んで悪霊を退治するシーンがありますが、そういう呪文のような扱いとはまるで違うんですね。
近藤丸 そうですね。お経は読むことでお祓いをしたり、自分に都合の良いことが起こったりする『呪文』ではありません。私たちが自己の生き方を問われたり、お経を鏡として生きることや生きる道を問い尋ねるものなのです。そういう意味では僧侶も、それ以外の人も、お経の内容を『聞く者』なのです。ですから、僧侶が読むお経にだけ功徳があり、それ以外の人が読むお経には功徳がないということではありません。どちらも仏様のお話を、ここでもう一度聞いていくということなのです。