超ホワイト職場の業務に歯が立たない...最初の職場からの敗走/発達障害の仕事術

pixta_30238368_S.jpg仕事や人間関係がうまくいかない...「もしかして自分は大人の発達障害なのでは?」と悩む人が増えています。しかし、その解決策を具体的に示した本は少ないのが現状です。

本書『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』は発達障害の当事者が、試行錯誤と度重なる失敗の末に身につけた「本当に役立つ」ライフハック集。うつでもコミュ障でも、必ず社会で生き延びていける術を教えます!

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前の記事「発達障害者の症状は凸凹。ひとりひとり「困りごと」が違います/発達障害の仕事術(2)」はこちら。

 

1回目の敗走

僕の社会人としてのキャリアは、文句のつけようのないホワイト企業から始まりました。もちろん激務感がゼロだったわけではありませんが、一般的な水準から見れば給与は高く、休みは多かったと思います。福利厚生はこれ以上ない水準で揃っており、教育環境は極めて高いレベルで完備され、まさしく文句なしの職場でした。

大学4年生の終わり頃、あの浮かれた気分を僕はいまだに覚えています。ついに俺はここまで登りつめたぞ。田舎者の発達障害者だってやればできるんだ。未来は希望に満ちていました。七転び八起きの人生だったけどやってやったぜ。そんな気持ちだったと思います。

前述のとおりそれから約2年後、僕は職場から敗走することになります。それは、僕の敗走人生の最も代表的なエピソードと言えると思います。

職場に入って一番先に思ったことは、「こいつらみんな能力高い!」ということでした。もちろん、能力の一番尖った部分で遅れを取る気はない、くらいの自負は僕にもありましたが、総合的な能力のバランスという面で僕は同期の中で圧倒的に劣っていたと思います。

端的に言えば、能力のムラがありすぎました。ホワイト企業の最も厄介な面はこれです。学歴はあって当たり前。その中でさらに苛烈な選抜を潜り抜けてきた彼らは、「何もかも普通以上にできて当たり前」なのです。

新卒にいきなり難度の高い仕事が回ってくることなどありません。「誰でもできる仕事を効率よくこなす」という点で競い合った場合、能力ムラが大きく集中力にも難のある僕は圧倒的な遅れを取りました。

眠気。耐え難い眠気。僕があの職場にいたときの記憶の中で最も印象深いのがこれです。とにかく仕事に興味が持てず、頭に入らない。単調に続く事務作業の連続は、耐え難い眠気を僕に起こしました。

また、僕は当時ADHDの処方薬であるコンサータを入手できておらず、薬によるブーストをかけることもできませんでした(後にこの症状はコンサータの投与で劇的な改善を見ることになるのですが、そのときには全てが手遅れでした)。

事務処理能力というのは残酷なジャンルです。素体スペックの差が隠しようもなく露呈します。何の面白みもなく、また仕事の全体像も見えないまま取り組む果てしない事務作業は、僕にとって最も適性のない仕事でした。しかし、ほぼ全ての同期は研修から配属初期に続くこの何の面白みのない作業に難なく順応していきました。

当たり前です。僕のように中学校は半分以下の出席、高校は単位取得ギリギリのサボリ魔なんてバックボーンの人間はほとんどいなかったはずです。彼らは退屈さと面白みのなさを克服する訓練を果てしなく重ねてきた人間たちでした。その上、発達障害者ではない人たちでした。「こいつら本当に人間なのかよ」と思った記憶があります。しかし、彼らから見れば「人間ではない」のは僕のほうだったでしょう。

僕は、人生のほとんどを「圧倒的に出遅れた後、後半で爆発的な加速をしてマクる」というパターンで乗り切ってきました。文句なしのスロースターターです。どこかで強烈な過集中(ADHD傾向の人にたまに起きる強烈な集中。コントロール不能な場合が多い)がやってきて、全てをチャラにしてくれる。その繰り返しで生きてきました。

中学も、高校も、入試も、大学も、就職活動も全てこのパターンでした。例えば、1年間で一定のタスクをクリアするのであれば、僕はその半分は間違いなく浪費します。そして、誰もが「あいつはダメだ」と思った頃、強烈に加速してチギる。この繰り返しでした。一番悪いのは、そのパターンで社会人になるまでは何とかなってしまっていたことです。僕は「出遅れなんていつものこと。どうせ後半になればいつものアレがやってくる」という強い楽観を無意識のうちに持っていました。

しかし、仕事というのはそういうものではありません。特に、巨大なシステムの歯車として機能する事務職においては、そのようなやり方は一切通用しません。安定した出力を常時出し続けることこそが一番大事なのです。突出する必要はありません。安定感こそが最重要です。僕には危機感がまるで足りませんでした。そして1年が経つ頃、僕は誰がどう見ても手遅れになっていました。

僕に仕事を教えようとする人間はおらず、また同情的に振る舞う者もおらず、それでも職場は問題なく回っていました。一度掛け違えたボタンは時間の経過とともに加速度的に悪化し、二度と元に戻ることはありませんでした。

 

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借金玉(しゃっきんだま)

1985年生まれ。診断はADHD(注意欠陥多動性障害)の発達障害者。幼少期から社会適応が全くできず、登校拒否落第寸前などを繰り返しつつギリギリ高校までは卒業。
色々ありながらも早稲田大学を卒業した後、何かの間違いでとてもきちんとした金融機関に就職。全く仕事ができず逃走の後、一発逆転を狙って起業。一時は調子に乗るも昇った角度で落ちる大失敗。その後は1年かけて「うつの底」から這い出し、現在は営業マンとして働く。

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『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』
(借金玉/KADOKAWA)
社会生活がうまくいかず苦しむ「大人の発達障害者」が増えていると言われる現代日本。発達障害によって30歳を前に人生をほぼ破たんさせかけた著者が、試行錯誤で編み出した「発達障害者のため」の今日から使えるライフハックを多数紹介! 仕事や人間関係がうまくいかない全ての人のための「日本一意識が低い」自己啓発書です。

この記事は書籍『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』からの抜粋です
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