二百年の暖簾(のれん)を繋いで。91歳の呉服店主が今、改めて振り返る「むら田」の歴史

『九十一歳、銀座きもの語り』 (村田 あき子, 西端 真矢 /KADOKAWA)第6回【全7回】

銀座で200年の歴史を紡いできた、小さな呉服店。その暖簾(のれん)を守り、90歳を過ぎてもなお、凛として店に立ち続けたひとりの女性がいます。それが「染織工芸 むら田」の店主・村田あき子さん。きものと共に歩んで70年、店主として30年。本書『九十一歳、銀座きもの語り』(KADOKAWA)は、村田さんが銀座の街で見つめてきた「きものと手仕事」、そして家族との愛おしい日々を綴った一冊です。人生の後半戦をいかに豊かに、美しく過ごすか――。そのヒントが、彼女のたおやかな語り口の中に溢れています。今回は本書の中から、きものに導かれた美しき人生の記憶を、抜粋してご紹介します。

※本記事は村田 あき子 (著), 西端 真矢 (著)による書籍『九十一歳、銀座きもの語り』から一部抜粋・編集しました。

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創業文政年間。木挽町亀井橋通りの「むら田」。1910年代

「むら田」の歴史

そもそも「むら田」がどのような歴史を歩んで来たのか、少しご紹介したいと思います。冒頭でもお話ししたように、「染織工芸 むら田」は江戸時代後期の文政年間に創業しました。初代の利八は日本橋の袋物問屋で修業をした人で、暖簾分けで独立して同じ袋物商を営んでいます。やがて二代、三代では質業と両替業にも商いを広げ、更に、明治時代後期に四代目の茂吉が結城紬の扱いを始めました。内国勧業博覧会で目にした結城紬に感動してのことだったといいます。直接現地の結城から仕入れる品揃えで評判を高め、ついに大正二(一九一三)年には「ゆうきや むら田」と改称して結城紬専門の呉服店へと商売替えをしました。広い東京で初めての結城紬専門店だったそうです。

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1913年に「ゆうきや むら田」となり、結城紬の専門店に

ところで、呉服店としてのむら田の始まりがこうして結城紬だということに、私は小さな縁を感じています。と言うのも、私の父方の祖父が同じ茨城県の下館の出身で、結城とはごく近いのです。祖父はことに結城紬を愛し、故郷の紬として大きな誇りを持っていました――

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祖父波山とあき子。1961 年、田端の板谷家にて

さて、大正六(一九一七)年、呉服店となったむら田に、先代吉茂が商業学校を経て入店します。ところがわずか二年後に茂吉が急逝、弱冠十九歳で五代目を継ぐことになりました。しかも四年後には関東大震災で、当時木挽町にあった店舗を失うという災厄に見舞われます。それでも必死に店を再建し、先代はやがて父親とはまた違った個性を発揮し始めました。結城紬と同様、全国各地で土地に根づいて織られる織物の美しさに開眼して、第一級のものを選りすぐって扱い始めたのです。その品揃えは私が初めてむら田を訪ねた日に目にした通りですが、華やかさを身上とする銀座の呉服店店主の間では、変わり者とも見られていました。

しかしそんな周囲の評価など意に介さず、ただ、自分の眼だけに従う。先代はそのような強い信念を宿した人でした。やがて自ら絣の図案を創案して、オリジナルの紬を次々と創作し、昭和十三(一九三八)年にはベルリンで開催された「国際手工業博覧会」で入賞。更に染めのきものにも扱いを広げていきます。特に絣の創案は高く評価され、戦時下の十七年には紬の「工芸技術保存資格者」に認定。厳しい産業統制のもとでも事業の存続を許されました。空襲で再び店舗を失いますが、銀座一丁目、柳通りに移転して商いを再開します。私の知るむら田は、このようにして二代にわたる強い個性によって形作られたのでした。

 
※本記事は村田 あき子 (著), 西端 真矢 (著)による書籍『九十一歳、銀座きもの語り』から一部抜粋・編集しました。
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