毎日の生活にドキドキやわくわく、そしてホロリなど様々な感情を届けてくれるNHK連続テレビ小説(通称朝ドラ)。毎日が発見ネットではエンタメライターの田幸和歌子さんに、楽しみ方や豆知識を語っていただく連載をお届けしています。今回は「『私なんか』の呪縛」について。あなたはどのように観ましたか?
【前回】上坂樹里の"うまさ"が光る第8週。「ずる賢さ」と「可愛げ」を嫌味なく同居させる表現力
※本記事にはネタバレが含まれています。

田中ひかる著『明治のナイチンゲール大関和物語』(中央公論新社)を原案とするオリジナル作品で、見上愛、上坂樹里がW主演を務めるNHK連続テレビ小説『風、薫る』。第9週「看病婦とアメ」は、看護を「仕事」として根づかせるとはどういうことか、その「仕事」を担う人々の暮らしを社会はどう支え、どう軽んじてきたか――を考えさせる週となった。
週の冒頭、侯爵夫人・千佳子(仲間由紀恵)の手術を見届けたりん(見上愛)に、バーンズ(エマ・ハワード)はきっぱりと言い放つ。
「看護は仕事です。奉仕ではありません」
前週から繰り返されるこの一言は、患者と看護婦の関係を問い直すと同時に、看護婦の側の生活と尊厳を引き受ける覚悟を、医療者と社会の双方に求める言葉でもある。「仕事」として成立するとは、見返りや恩義ではなく、適正な対価と専門性への敬意によって支えられるということだ。第9週はその「仕事」が、現場と家庭の双方でいかに成立しがたいかを、ベテラン看病婦・永田フユ(猫背椿)の暮らしを通して描いていく。
フユは10年のキャリアを持つ古株の看病婦。誰より作業が速く、誰より多くの仕事をこなす。手術介助の腕は誰にも真似できない一級品で、多忙のなかでも家で食器や布を手術道具に見立てて練習しているという、努力の人だ。にもかかわらず、医師たちにはその技術も経験もまるで伝わっていない。それどころか藤田助教授(坂口涼太郎)が突然詰所にやってきて、看護婦見習いに対し、フユら看病婦に看護を教えるよう一方的に言いつける。経験の蓄積より、座学で学んだ「学問」のほうが上――そう線を引かれた瞬間に、フユの10年は軽んじられる。
この対比は、現代の医療・福祉・保育の現場とも地続きだ。サポート側、実働側の仕事は、領域が広く煩雑で、目配り・気配り・スピード・的確な判断と、相手の状態の機微を読み取る観察力までを求められる。長年の経験でしか身につかない、れっきとした専門性なのに、専門知識のある「司令」側に比べて賃金は著しく低く、評価もされにくい。しかも、病気の家族や乳幼児、高齢の親、障害のある家族のケアを抱えながら、生きるために他者の看護・介護・保育を担う人たちが、いまもたくさんいる。家庭で「ケアされるべき家族」を抱えた人が、職場では「ケアする側」として走り続ける――フユの「他人の世話するくらいなら家で亭主見てたいわよ」は、現代のケア労働者がなお直面し続ける矛盾そのものだ。家庭に押しつけられてきたケアを、低賃金で別の家庭の女性に肩代わりさせる構造――その入口に、フユは立っている。
フユの抱える事情は、その軽視のもう一段奥にある。看病婦は当時、行き場のない人がなる職業とされ、「卑しい身分の者がやるもの」とまで言われた。賃金は安く、それでも女性ができる仕事がほとんどなかった時代の、ぎりぎりの選択である。フユもまた、お金がないために息子を10歳で奉公に出し、足を悪くして働けなくなった夫・康介(じろう)を養いながら、仕事を終えて帰宅したあと、夜遅くに洗濯などの家事をこなす日々を送っていた。「お金がないから、亭主が足を悪くして仕方なく、恥をしのんでこの仕事についたの。私はあんたたちと違ってこの仕事が好きでしてるんじゃないの」――生活に追い詰められた人の本音だ。
その構造のいちばん奥にあるのが、貧しさが誇りまで奪ってしまうという問題だ。本当なら誇れるはずの10年の経験と技術を、フユ自身が肯定する余裕すら、暮らしは許していない。りんに手術介助を教えてほしいと頼まれて「お金くれたらね」と月謝を要求するのも、性格の話ではない。タダで分け与えられる余白を、暮らしがとうに奪ってしまっているのだ。それを唯一見抜くのが、親のない直美(上坂樹里)。「卑しいんじゃなくて、本当にお金なくて切羽詰まってるって考えないの?」――この一言に、貧しさを当人の品性の問題にすり替える社会の癖が、静かに撃ち抜かれている。
第9週がもうひとつ示すのが、夫・康介の口癖「なんか」の重さだ。「私なんか」「看病婦なんか」「確かにあなたたちは看病婦なんかと違う」「看病婦なんかさせてお恥ずかしい限りで」――足を悪くして働けない康介は、自分を、妻の仕事を、その「なんか」で削り取っていく。働けない自分は役に立たない、価値がない。妻の職業もまた、世間から軽んじられる「なんか」の側にある――その繰り返しには、働けない者を「なんか」と切り下げる社会のまなざしが、深く内面化されている。康介の卑屈さは個人の性質ではなく、社会が「役に立たない」側に与え続けてきた評価そのものだ。
その「なんか」の対極にいるのが、第3週に登場した島田健次郎(佐野晶哉)、通称シマケンである。フランス語・ドイツ語・オランダ語を解するシマケンは、りんに「役に立つ仕事や役目がないと生きていけないから」と言われたとき、こう返してみせた。「どうしてそんなに何者かにしたがるんですか」「(役に立たず、役目がなくとも)生きていける社会の方が僕は助かりますけどね」。そして自らを「何者でもない変わり者」と名乗ってみせた。役に立つか立たないかで人の値打ちが測られる社会のまなざしを、シマケンはそもそも引き受けていない。康介の「私なんか」は、シマケンが立とうとする地平の真裏にある。働けない者に「なんか」と自称させてしまう社会の側こそ、本当は問い直されなければならない。
そんな康介に、りんはまっすぐに言う。「フユさんは看病婦なんか、と言われるような仕事はしていません」。手術介助が最も上手なのはフユであり、それは自分には一生できないこと。ご主人だけはいたわって差し上げてください、ご自分のことも「私なんか」などと言わないでください、と。妻の仕事の価値と、夫の人としての価値は、別々に肯定されてよい――「なんか」で切り下げる物言いに、りんは明確に抗おうとしている。
休日、直美の提案でりんと二人、康介の看護に出かける場面も印象的だ。ケアには終わりがなく、家族は決まったことだけで手いっぱい。他者が入って、こぼれていたケア――洗髪、布団干し、枕の洗濯――に手が回る。家庭のケアを家族だけに押しつけず、外から手を貸せる仕組みがあれば、フユのように擦り切れていく人を救える。
一方、直美自身も静かに動き始めている。教会で詐欺師・寛太(藤原季節)と再会した直美は、自分の母らしき夕凪が25年ほど前まで品川にいた女郎で、年季が明ける前に男と逃げたらしいと聞き、教会に捨てられた際に持っていたお守りの「浦崎八幡」のお札を寛太に託す。なぜ今さら、と問われ、直美は答える。病院で働くようになって、生まれたての子も死にそうな人も、いいやつも嫌なやつも、いろんな人に会った。そしたら、自分を産み落とした人の顔をひと目見てみたくなった、と。「正しい人」を呪い、自分の境遇を恨んできた直美が、自分のルーツに向き合おうとしている。
千佳子の手術中、直美が窓の外を眺め、知らず知らずのうちに祈っているように見えた場面も印象に残る。教会で育ちながら神を信じてこなかった直美が、知らぬ間に祈る側に回っている――バディ・りんと過ごす日々のなかで起きている変化は、第9週のもう一つの主題でもある。
「看護は仕事です」というバーンズの言葉に立ち戻れば、その「仕事」を成り立たせるには、賃金、尊重、家庭との両立、そして「役に立たない」側に「なんか」と自称させない社会のまなざしが必要だ。第9週『風、薫る』は、明治の話のかたちを借りて、令和のいま私たちが直面するケア労働と尊厳の問題に、まっすぐ切り込んできた。
文/田幸和歌子




