毎日の生活にドキドキやわくわく、そしてホロリなど様々な感情を届けてくれるNHK連続テレビ小説(通称朝ドラ)。毎日が発見ネットではエンタメライターの田幸和歌子さんに、楽しみ方や豆知識を語っていただく連載をお届けしています。今回は「スバラシな日々の物語」について。あなたはどのように観ましたか?
【前回】ラスト2週、ついに"怪談"が完成..."オワリニンゲン"ヘブンを救ったトキ(髙石あかり)の提案
※本記事にはネタバレが含まれています。

髙石あかり主演の朝ドラ『ばけばけ』第25週「ウラメシ、ケド、スバラシ。」が放送された。
トキ(髙石)とヘブン(トミー・バストウ)二人で書き上げた『KWAIDAN』がアメリカから届く。大喜びの家族に、ヘブンはアメリカでたいそう売れていること、イライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)も気に入っていることを伝える。後日、トキは丈(杉田雷麟)から『KWAIDAN』の日本語訳を手渡される。もともとこれは「学がない」と嘆くトキが自分にも読める本をとヘブンに願ったことから生まれた本であり、ヘブンが丈に日本語訳を頼んでいたのだ。ヘブンはトキに言う。
「アナタノハナシ、アナタノコトバ、アナタノカンガエ、スベテツマッテイマス。セカイイチノホンデス」
その後、ヘブンは胸の痛みを訴え、全財産をトキに相続させると書いた遺言書を渡す。そして小さい瓶に自分の骨を入れて寂しい寺に埋めてくれと言い、トキに願いを託す。
「カナシム、ワタシ、ヨロコブ、ナイ。ママサン、コドモトカルタシテアソブ。ワタシ、ソレ、ヨロコブ」
ヘブンはその後良くなったと言い、「もう~人騒がせな~! やめてごしなさい!」とトキは安堵で笑い泣きするが、そこに「不吉の報せ」と言われる桜の狂い咲きが。「ハロー、会えて嬉しい」と桜を見上げるヘブンの頭上を花弁が舞い散る。
そして、しじみ汁に、口々に「あ~」と声を漏らす松野家のいつもの朝。ヘブンはトキに魚の小骨をとってほしいと甘え、二人が女中と雇用主の関係だった時代の花田旅館や、虫と間違えて「ジゴク」を連発した糸こんにゃくのことなど、思い出話をする。ますます不吉なフラグが立つ中、西日の射す夕暮れ時の部屋で、ヘブンはトキに胸に大きな痛みが来たと告げ、「イトコンニャク、コンド、タベテミタイ。タベテミル」と言う。「コンド」が来ないことはヘブンも、トキもわかっているのだろう。
昨日咲いた桜は私にさよなら言うために咲いたのだと言うヘブンをトキは諫めるが、決して泣いてはいけないと念押しするヘブンに「子どもとカルタして遊びます」「カルタ終わったらスキップします」「デデポポ、カカポポ真似して、虫つかまえて、子どもたち大人なったら、ベア飲んで酔っ払います。ようけ酔っぱらったらまたスキップします」と二人のこれまでを振り返り、ヘブンに変わらぬ日々を約束する。スキップもデデポポカカポポもビアも、本作が積み上げてきた笑いたっぷりの「何も起こらない日々」が、二人の別れの間際、ヘブンの最期の瞬間に大きな意味を持って輝くというのは、実に巧い構成だ。
そしてヘブンは「シツレイナガラ、オサキ、ヤスマセテイタダキマス」と言い、「失礼ないです。お休みくだされ」とトキが返す。夜中に執筆に集中するヘブンにトキがかけていた言葉を、最後の瞬間にヘブンが言い、逆にそれをトキが受け止める。そのままトキの肩に寄りかかり、静かに目を閉じ、ヘブンはこの世を去る。あまりに静かな別れだった。これがなんと火曜の展開である。
ヘブンが望んだように小瓶に入れた骨を寂しい寺に埋めるトキ。傍らにはサワ(円井わん)がいて、「取り乱した?」と尋ねる。トキが取り乱したいとき、いつも受け止めてくれたサワ。かつてトキがサワの本音を吐き出させ、取り乱させてあげたシーンもあった。そして今度は「もう母親だけん」「最期があまりに静かであっけなくて、取り乱す暇がなかったいうか、取り乱せんかったいうか」というトキに、思い切り取り乱させてくれるサワ。サワがいてくれて本当に良かった、一番つらい時に一番頼れるのは友達だなと思う瞬間だ。
しかし、そんな矢先、イライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)が突然訪ねてくる。そこで初めてトキらは、『KWAIDAN』がアメリカで全然売れていないことを知る。ヘブンにはもっと高尚なものを期待していたのに、なぜ最後に怪談を、子どもでも読める民話集を書いたのかとトキに詰め寄るイライザ。トキは自分のせいだ、自分が読める本をお願いしたからだと謝ると、イライザは「どうしてあなたが? 彼はベストセラー作家として大事な時期だったのよ!」「台無しだわ! わかる? すべて台無しにしたの!」と涙を流し、激しい怒りをトキにぶつける。
天井の低い家屋にズカズカ入り、「why?」を大きな声で連発し、机を叩いて激昂し、立ち去るイライザの様は、日本人にとっては「意地悪」「キツイ性格」にうつるかもしれない。
日本人であれば「台無し」だと思っても口にはせず「察する」文化だ。だからこそストレートな怒りには驚くし、「アイムソーリー」とただ謝るのも卑下してしまうのも、おそらく今も変わらない。
とはいえ、それはイライザなりの愛情で、悪意があるわけではない。イライザは、トキにしか書けないものがあると言い、丈にリテラリーアシスタントを務め、トキに回顧録を書かせるよう依頼する。
しかし、自分の存在を全否定されたような思いを抱くトキは、ヘブンの最期を台無しにしてしまった、最低の人生にしてしまったと自分を責め続ける。振り返ると、浮かんでくるヘブンは「何をするのも愉快な人」だった、にもかかわらず自分がそんな人を縛り付けてしまったのだという後悔につながることばかり。
思えば、帝大に着物+袴で行こうとするヘブンを止め、学生たちが期待する"西洋人"の服装で行かせたのもトキだった。ヘブンがフロックコートを「ヤバンコート」と呼び投げ捨てたこと。でも、トキが「フロッグコート」と言って蛙の絵を描くと、ヘブンは少し笑顔を見せ、その後はトキに何度も「フロッグコート」を言わせ、自らコートを着ていた。トキはヘブンが西洋人であることを受け入れようとしたと思ったが、今思うと縛り付けようとする私に愛想がつきたのだろうと振り返ると、丈は笑って勘違いだと言う。フロッグは蛙で、本当はフロッグではなく、フロックコートだ、と。ヘブンはフロッグコートと言うトキがどうにも愛おしくて笑っていたのだ、と。
思えばトキとヘブンはずっとそうだった。女中時代、「ビア」を所望され、琵琶や鎌、サワまで連れてきたり、アイロンでシャツをこがしたり。すると、フミは「こげな話がいいんだない?」「ヘブンさんと二人、こげな夫婦だっただない? 他愛もない、ほんに他愛もない、スバラシな毎日だっただない?」と言う。
イライザに「台無し」と否定されたことで、楽しかった日々も全て「自分が縛り付けていた」とネガティブに変換されてしまったトキを解放する言葉だ。本作では同じモノも、視点やフィルターを変えると違って見えてくることを「松江の風景」や「世間」を媒介にし、これまでも繰り返し描いてきたが、最後のフィルターが他者の評価であり、最後の被写体が「トキとヘブンの日々」だった。
トキの頬を張りつめていた糸が切れたように涙が零れ落ちる。そこに1匹の蚊が。「生まれ変わったら蚊になりたい」と言っていたヘブン。トキは笑いながら話し出す。
「蚊が好きでした。生まれ変わったら蚊になりたいと言うちょった」
そこからトキは三日三晩語り続け、それが丈の手を経て『思ひ出の記』という1冊の本になる。
実は本作の最大のうらめしさは、小泉八雲の怪談の共同制作者と言っても良いセツさんの名が歴史に残らなかったこと、文学や芸術の世界でこうして女性の名が消されていったことだと個人的には思っていた。
しかし、本作のヘブンと同様、小泉八雲も英語で日本文化を紹介する作家として欧米ではすでに知られていたものの、『怪談(Kwaidan)』が刊行されたのは亡くなる直前で、当時の日本では文学の主流とはみなされておらず、本格的に広く評価・定着したのは死後しばらく経ってからだった。
そうした意味では、本作のヘブンもトキと同様に「うらめし」人であり、そうした「評価」や「名声」の軸とは別に、二人は他愛もないスバラシ日々を生きていた。そして、それが語れるのは、遺されたトキの「ハナシ、コトバ、カンガエ」だけなのだ。
本作でもっと怪談をたくさん描いてほしいという思いは正直あった。しかし、最終週を観て気づく。これはヘブンの文学の物語ではなく、ヘブンの功績の影にいた人・支えた人の物語でもない。トキにしか語れない「何も起こらない日常」が積み重ねられた、トキ自身の、ヘブンとの「他愛もないスバラシな毎日」の物語だったのだ。
文/田幸和歌子




