他者とのつながりの中で生きる時に、人に合わせてばかりいることはできない/岸見一郎「老後に備えない生き方」

他者とのつながりの中で生きる時に、人に合わせてばかりいることはできない/岸見一郎「老後に備えない生き方」 pixta_23897719_S.jpg『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回はその8回目を掲載します。テーマは「課題の分離と協力」。

◇◇◇

嫌われることを恐れない

前回、私の本のタイトルを引き合いに出して、嫌われる勇気というのは、「嫌われなさい」という意味ではなく、「嫌われることを恐れるな」という意味であると書いた。

嫌われることを恐れていると、自分がいいたいことをいえず、したいことができず、人に合わせてばかりの人生になってしまう。

これは傍若無人であってもいいということではない。これまで自分を抑えて生きてきた人は、自分の言動が人にどう受け止められるかということを気にかける優しい人である。だから少なくとも故意に人を傷つけたことはない。

そのような人が他の人からどう思われるか気にしないでいいたいことをいい、したいことをしようと決心してもちょうどいい加減なのであり、嫌われることを恐れなくなったからといってわがままになったり傲慢になったりするというような心配はまったくない。

人からどう思われるかばかり気にして、生きる指針を自分で決められなければ、自分の人生を生きられなくなる。

 

私が共同体を変える

人は一人で生きているのではなく、他者とのつながりの中で生きている。その中で生きる時に人に合わせてばかりいるということはできない。

人と人とのつながりを共同体というが、その最小単位は「私とあなた」であり、家族、学校、職場、地域社会、さらには国家、宇宙までも広がっていく。

その共同体の中に、人はただ受動的に所属しているわけではないのである。たしかに多くの場合、既存の共同体に時間的にいえば後から入っていくのだが、自分よりも先にその中にいた人に従わなければならないわけではない。

共同体の最小の単位である「私とあなた」の場合は、「私」が既存の共同体に後から入っていくわけではない。「私」と「あなた」から成る最小の共同体は、二人の出会いと同時に成立する。「私」だけの、あるいは「あなた」だけの共同体はなかったのである。

より大きな共同体は、「私」が共同体、例えば、家族の一員になる前に「私」がその中に存在しない共同体は存在したが、「私」が一員になる前の共同体はもはや存在しないのである。

私の子どもがある日、真顔でたずねたことがあった。
「僕がいなくても寂しくなかった?」
子どもがいなかった家族という共同体はもはや存在しない。このように考えると、たとえ何もしなくてもその一員になるだけで家族は変わるのである。

祖父母が孫たちと同居することになる時も同じである。祖父母のイメージを高校生にたずねたところ、「家族、あるいは、両親のあいだをおかしくするひと」と答える生徒が増えたという(鷲田清一『噛みきれない想い』)。

祖父母の立場から見ると、こんなふうに孫から見られるということを知るのは嬉しくはないが、それくらい家族のあり方が変わるということである。それまで同居していなかった祖父母が、病気などのために家族と同居することになった時はもとより、祖父母の介護をどうするかというような話を家族の誰かがするだけでも、家族がギクシャクすることはありうる。

これは祖父母が実際に難しい人であるからではない。それどころか、それまで祖父母との関係がよくても、いざ同居するとなると、そのことが家族関係に微妙に、あるいは、かなり影響を及ぼすことになる。

 

他者にどのように働きかけるのか

アドラーは次のようにいっている。
「もはや自分が必要とされていないのではないかと恐れる人は、がみがみ小言をいう批評家になる」

自分が必要とされず何の影響力も持てないことを不満に思う人は、せめてうるさがられたり、嫌われたりすることで、認められたいと思っているからである。そのような形で、家族の中に居場所を見出そうとするのである。

他方、嫌われたくないので「心優しい気立てのよい老人」になる人もいるとアドラーは指摘する。そのような人は、他の人のことには何一つ口を挟まず、子どもや孫の人生には無関心である。若い人にしてみれば、うるさくいわれるよりははるかにありがたいが、家族としてこれでいいかといえばそうではない。

実際、若い人が自分で決めたことで問題にぶつかることはあるので、実際できるかどうかは別として、その前に何とかしたいと思うくらいの関心はあってもいいのではないかと思う。
「それは違うのではないか」といってよい、あるいはいわなければならない場面はあるはずである。しかし、提案をすることで子どもや孫が自分の提案を受け入れ、その結果、彼らの運命に多少なりとも影響を与えるという責任を取りたくないのである。

このような人も嫌われることを恐れる人だが、共同体の中で何もしていないわけではない。
うるさがられたり嫌われたりして認められようとする人も、他方、いいたいことがあっても何もいわず、したいこと、するべきことがあるのに何もしない人も、そのことは他者に影響を与える。

対人関係のあり方はこのように自分が共同体の中にいるだけでも変わるのだから、現状に何か改善すべきことがあると思う時などには、我慢していないで積極的に働きかけてもいいのではないか。

 

次の記事「対人関係のトラブルはなぜ起きるのか/岸見一郎「老後に備えない生き方」」はこちら。

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岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書はベストセラーの『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

 
この記事は『毎日が発見』2018年5月号に掲載の情報です。

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