自分を嫌う人がいるのは、自分が自由に生きていることの証/岸見一郎「老後に備えない生き方」

自分を嫌う人がいるのは、自分が自由に生きていることの証/岸見一郎「老後に備えない生き方」 pixta_21060671_S.jpg『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回はその7回目を掲載します。テーマは「嫌われる勇気」。

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前の記事「未来への不安も、過去への後悔や怒りも、何の役にもたたない/岸見一郎「老後に備えない生き方」(6)」はこちら。

 

対人関係をめぐる感情

以上見てきたように、未来や過去について起きる感情は対人関係に関わる。
自分の判断や決定で完結していれば、後悔する気持ちはあったとしてもその後悔は大きくはなかっただろう。
また、未来のことについても、自分の決断が自分だけに関わるのであれば、それほど不安に感じることはないだろう。

ここまでのところで、不安、後悔、怒りなどは直面する課題の解決には必要ないことを見てきた。それらの感情から自由になるためには、過去はもはやなく、未来もまだきていないと思い、過去や未来を生きるのではなく今ここを生きなければならない。

しかし、今ここを生きるために、瞑想をしたり、座禅を組んでみたところで、現実に戻ればすぐに何もかも元に戻ってしまう。家族や友人と楽しい一時を過ごしてみても、花火のあとのように一人になれば寂寥(せきりょう)の感に襲われるばかりである。

そのような一時的な問題の解決だけではなく、対人関係の問題を根本的に解決することを目指さなければならない。

 
嫌われることを恐れるな

他人のではなく自分の人生を生きるためにはどうすればいいのか。
2013年の暮れに『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)という本を出版した。タイトルにインパクトがあったこともあって、今も多くの人に読まれている。

本のタイトルだけが一人歩きし始めた感はあった。もともと嫌われている人には嫌われる勇気はいらないのだが、今十分嫌われている人が嫌われてもいうことはいうべきだなどといい始めた。この本は嫌われていない人にこそ読んでほしい。

不安になり後悔する人は、自分の決定が他者にどう思われるか、思われたかを気にする人である。先に見た夫の癌を隠した人は、後に近所の人たちに怒られたが、後悔はないといいながら、気持ちが揺れているのは、なお人からどう思われるかが気になるからである。

「対人関係は難しいと思います。特に親戚と仲良く、楽しくするために、無理することや我慢することがストレスになる。でも、結果的に笑顔でいられればいいのかしら」

結果的に笑顔でいられたらいいのかということだが、そのために無理したり我慢するのはおかしい。

摩擦を避けたいので、いいたいことをいわない、したいことをしないで人に合わせれば、たしかに誰からも嫌われないが、人からよく思われることを気にかけるあまり、自分では何も決められず、そのため人生の方向性が定まらなくなる。さらには、自分の人生を生きられなくなる。

そのような人にこそ、嫌われる勇気を持ってほしい。嫌われる勇気を持つというのは、「嫌われなさい」という意味ではなく、「嫌われることを恐れるな」という意味である。

嫌われることを恐れる人はいいたいことをいわず、したいこともしないので、ぶつかる人はいない。そのような人は大抵いい人である。
しかし、そのような人は八方美人として生きており、その上、誰にでもいい顔をし、誰にでもいわば「あなただけよ」と忠誠を誓うので、誰にでもそうしていることが発覚すればたちまち信頼を失うことになる。

反対に、人から嫌われることを恐れなければ、いいたいことをいい、したいことをするので人とぶつかる。その結果、嫌われたり、憎まれたり、傷つくことがある。
しかし、自分のまわりに自分を嫌う人がいれば、そのことは自分が自由に生きていることの証であり、自分を嫌う人がいることは自分が自由に生きるために支払わなければならない代償である。

これまで人に合わせてきた人であれば、これくらいの覚悟をしても、ちょうどいいくらいである。

「嫌われることは寂しいこと。家族に嫌われると、老後の生きる力がゼロに近くなるとは、結婚する時には考えもしませんでした。逆に、他人に嫌われて当たり前と思えるようになりました」

これくらいの覚悟は必要だが、しかし、「生きる力がゼロに近くなる」のは困る。どうすればいいのか。

「嫌われる勇気は必要です。私の住むマンションで、子どもがいたずらをしていたので注意したら、側にいた母親は次の日からこちらが挨拶をしてもしなくなりました。こういうことがあるので皆さん、見ても見ぬふり。だから、自分の子どもも叱れないのですよね。私はそんなもの怖くない。嫌われて結構です」

これも少し行き過ぎだと思う。それでも、嫌われる勇気を持たない人、嫌われることを恐れる人が陥る問題が明らかになっている。

つまり、嫌われることを恐れる人は、人に合わせてしまい自分の人生を生きられないということを先に見たが、もう一つの問題は、本当にいわなければならないことをいえない、しなければならないことができないということである。

この人がいたずらをする子どもに注意をするのは正しい。親から無視されることを恐れて、子どものいたずらを見て見ぬふりをするのはおかしい。
ただし、叱ることはない。この話は今のテーマを逸脱するので簡単に書くが、叱らなくても、毅然とした態度で、感情的にならずに間違いを指摘すればいいだけである。叱ることで嫌われることはないのである。家族の中でも、子どもや孫から嫌われる厄介な人になる必要はない。

ある時、電車の中で立っている高齢の女性がいた。私よりも年上の男性が、すわっている3人の小学生に席を譲るように指示した。小学生はその女性がいることに気づいていなかったので、すぐに立ち上がって席を譲ろうとしたが、その女性は気づかない様子だった。
困惑している小学生に男性はいった。
「もっと早く気づかないとダメだぞ」
正論だったが、もう少しいい方を工夫できなかっただろうかと私は思った。

「好かれることを多く考え、行動しているし、一度嫌われるとその後はもう終わりになってしまうように思います。自分が最後に頼る人は誰でしょうか。大切にした方がよい人、物が知りたい」

一度嫌われたら終わりになるような人は頼りにならないということである。わざわざ嫌われるようなことをいう必要はないが、家族や親友であれば、いわないといけないことはあるだろう。それをいって、相手がどう思うかまで考えていたら何もいえない。

「私は人間関係で悩んでいます。最近まで普通に話もできていた人が、ある日から私を無視するようになりました。何が原因? 私の何が気に入らないのか、何がいけなかったのか悩み、自分を責めました。友人にも相談しました。自分の意見を通そうとするし、いつも人の悪口ばかりで聞きたくありません。悩んでいても仕方がないので、私は無視しようと決めました。これから何事にも動じない、大きな人間になろうと思います」

こういうことはよくある。このような時にはできるものなら無視するようになったその人に直接、前のように話してくれなくなったのかをたずねるべきである。その人と友達でいることを選ぶのであれば。

ただ、無視する理由は本人にもわからないことが多い。以前は好ましいと思っていたことが、突然嫌いになることはあるからである。優しい人が優柔不断に、頼り甲斐がある人が支配的に思えるというようなことである。

どうしても関係を改善しなければならないのでなければ、自分をよく思わない人のために心を乱され、平穏な日を暮らせないのはおかしい。

 

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岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書はベストセラーの『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

 
この記事は『毎日が発見』2018年4月号に掲載の情報です。

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