これからの人生が長く感じられるか、短く感じられるか/岸見一郎「老後に備えない生き方」(2)

pixta_37488754_S.jpg『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回はその2回目を掲載します。

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前の記事「高齢になってからも残しておいた方がいいものは何ですか?/岸見一郎「老後に備えない生き方」」はこちら。

 

これからの人生は短いのか

若い頃は美しい景色を見れば、「きれい」とただ感動していただけだったのに、歳を重ねると、桜を見ても紅葉を見ても、美しさに心を打たれるよりも、この景色を見るのはもう今年が最後かもしれないと思うことがある。

父を介護していた時、車椅子を押して父と出かけた時はいつもそう思っていた。この頃は、私自身がこれからどれくらい生きられるのだろうと思うことがある。

父がある日こんなことを呟いた。「どう考えてもこれからの人生の方が短い」

当時、父はアルツハイマー型の認知症と診断されていた。常は深い霧の中に生きているように見える父にも、時々霧が晴れる日が訪れた。

そんな日、父には常は見えなかった現実が見えたのかもしれない。子どもの頃から知っている父に戻った日、私は嬉しかったが、父にとってはそのことが幸せだったかはわからない。

母は四十九歳の時、脳梗塞で亡くなっている。父は母のことを忘れてしまった。そのことは家族にとっては悲しいことだが、父がかつて自分は結婚していて妻と四半世紀共に暮らしたが、四半世紀前に自分を置いて逝ってしまったという現実を知ることが幸せとはいえない。むしろ、現実を知らない方が幸せかもしれない。そう考えて、私は父に母のことを思い出させようとはしなかった。

この日、父に見えた現実は、これからの人生が短いということだった。なぜ、父がこのようにいったことに驚いたかといえば、その頃の父には過去も未来もなく、いわば点を生きていたのに、「これからの人生」つまり、未来を見ていたからである。父は未来を見ただけではなかった。これからの人生が短いという現実まで知ったのである。

しかし、父が「これからの人生が短い」といった時、どういう意味でそういったのかはわからない。普通に考えれば、自分がもう高齢なので、これからそれほど長く生きられないことを嘆いていると解釈できるが、短いという言葉だけでは父が何をいおうとしたかはわからない。

父は本当に「現実」を知ったのだろうか。父は、常は霧の中にいて、現実が見えなかった。ところが、ある日、現実が見えた。それが「これからの人生が短い」という現実なのだろうか。

むしろ、これからの人生が見えないのが現実ではないか。なぜなら、未来は文字通り、まだきておらず、したがって、それが短いかどうかは本来わからないはずだからである。実際、明日起こるであろうことをどれだけ想像力を膨らませて、ありありと想像してみたところで、その通りに起こることは決してない。そう考えると、常の父がそうであったように、未来が見えない、あるいは、未来がないのが現実であるとも考えることができる。未来はないのが現実であれば、ないものについて、それが短いか、長いかをいうことはできない。

これに対しては、これまで生きた年数を考えて、これから先の人生が短いというのだと反論する人はいるであろう。しかし、これとて自明ではない。

子どもの頃は、一年一年が長く感じられたのではないか。子どもの頃だけではない。小学校に入り高校を卒業するまでは私は長く感じた。一年一年に重みがあった。ところが、今は、一年を短く感じる。ついこの間初詣に行ったと思っていたのに、すぐに桜が咲き、暑い夏がやってきて、年が暮れる。一体、一年が長く感じられるのと短く感じられるのでは、どちらが現実で本当なのか。

どちらも本当ではないと考える人はいる。どう感じようと一年は三六五日もしくは三六六日である。もっと短い時間についても、時計で計れる時間こそが客観的な時間であり、それを長く感じるか短く感じるかは主観にすぎない、と考えるのである。

子どもの頃、井戸水に触れたことがある人は夏は冷たく、冬は温かく感じたのではないか。しかし、それは主観的にそう感じられたのであって、「本当は」井戸水の温度は一年を通じて十八度で、冷たくなるのでもなく、温かくなるのでもないと見なさなければならないのか。

お金の価値であれば、こんな理屈が通用しないのがわかるだろう。十年前の五百円と今の五百円の価値は同じなのか、違うのか。この問いに対して、金額が同じなのだから同じだと答えたら、常識を疑われるだろう。なぜなら、十年前に五百円で買えたものが今は買えないからである。五百円では買えなくなっても、五百円は同じなので買えなくなったのが主観だとは誰もいわないだろう。

このように考えると、これからの人生が長く感じられるか、短く感じられるかは、時計で計れるようなものでないからといって、主観的なものでしかないわけではないことになる。

その上で、それでは、これからの人生が長いと感じられたら幸せなのかといえばこれも自明ではない。嫌な仕事であれば、時間はなかなか経たない。時計が止まってしまったかのように思う。反対に、楽しい時間は、なぜこんなに早く過ぎるのかと思うのではないか。そうすると、これからの人生が短いと思うことが不幸であるとはいえない。

では、これからの人生が普通の意味で短いとしても、どうすればそのことを幸せに感じることができるかをさらに考えなければならない。

 

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<教えてくれた人>
岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書はベストセラーの『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2018年2月号に掲載の情報です。
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