八代亜紀としてデビューしてから47年目。ずっと第一線で輝き、演歌の女王というイメージに留まらず、本格ジャズアルバム『夜のつづき』を発表するなど、ますます活躍の場を広げています。そんな八代亜紀さんに、歌手をめざした原点、その美しさの秘密を4回に渡ってお届けします。
波瀾万丈の歌手人生!? 正しい道を選択してきた
――"演歌の女王"八代さんの原点は、実はジャズだと伺いました。
八代 12歳の頃に父がジャズアルバムを買ってきてくれて。それをまねして歌い始めてね。
――15歳で上京して、プロの歌手を目指したんですよね?
八代 上京したというか、父に追い出されたの(笑)。年をごまかして地元のキャバレーで歌っていたことがバレて「不良はいらん。娘じゃなか」と。父はちょうど独立して会社を始めて、とても苦悩していたから、私は進学せず、クラブシンガーになって支えようって思いで。でも、そこで不良だと勘違いされなかったら、いまの私はないものね。上京して、いとこ夫婦のところにお世話になって、音楽学校に行きながら......「アキは本当に歌いたかったんだ」って理解してもらわなければって思ってた。人生って綱渡りだし、不思議。私は遠回りかもしれないけど、正しい道を選択してきたなと思います。
――銀座で歌いはじめたのは?
八代 上京後は、レコード会社にスカウトされて、最初はグループサウンズのボーカリストになったのだけど、うまくいかなくて。仕送りもないから音楽学校の学費も払えない。それで、もともとソロシンガーになりたかったし、働かないとって「美人喫茶」のオーディションを受けました。当時、コーヒーが80円の時に、そこは800円。きれいなお姉さんばかりの高級喫茶で、「今日から専属で。好きな歌を歌っていい」って言われれてうれしかった。当時、初任給が7000円くらいの時代に10万円のサラリーでしたよ(笑)。
――みごとにチャンスをつかみましたね。
八代 そうなの。私、すごくシャイで、人とうまく話せなかったけど、クラブシンガーになって歌いたいという思いだけで、「募集」の張り紙を見て、パッと入ってオーディションを受けましたからね。チャンスって、すぐ頭の上を飛んでるから、ジャンプして手を伸ばす行為、努力をしないと逃げていくってスゴく感じました。
――波瀾万丈な人生ですね。
八代 みなさん、波瀾万丈だとおっしゃるんですけど、全然そんなことない(笑)。だって、ルンルンだもん。歌えるところがいっぱいあって、自由に歌える! それが、もう楽しくて楽しくて(笑)。スカウトされていくとサラリーはいいし、モテるしね。
――(笑)。モテましたか?
八代 銀座時代は、地下鉄から上がると、スカウトマンが5、6人待っていましたから。黒服のすてきなお兄さんたちを巻くのは楽しかったですよ〜(笑)。その後、八代亜紀としてデビューしたんですけど、2年間売れなくて。各地廻って、まず歌って、レコードを買ってもらうの。手は豆だらけ。そんな時に「本当にがんばっていたんだな」って父が許してくれました。そして、「雨の慕情」「舟唄」も大ヒットした八代亜紀を見届けて亡くなりました。その頃は私の身体をすごく心配してたなあ。休む暇がなかったですからね。
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構成・取材・文/古城久美子 写真/山本佳代子
八代亜紀(やしろ・あき)
1950年、熊本県八代市出身。1971年デビュー。「なみだ恋」「舟唄」「雨の慕情」などが大ヒット。2012年、初の本格ジャズアルバム『夜のアルバム』を発表し、世界的なヒットを記録した。画家としても活躍中。
『夜のつづき』
UNIVERSAL JAZZ / ¥3,000+税
本格ジャズアルバム第2弾。ジャズスタンダード「帰ってくれたら嬉しいわ」をはじめ、歌謡曲「黒い花びら」「涙の太陽」などのジャズアレンジ他。11/13(月)ブルーノート東京、12/25(月)ビルボードライブ大阪、18年1/17(水)名古屋ブルーノートでライブ。