「病気の名前は、肺がんです」。医師からの突然の告知。しかも一番深刻なステージ4で、抗がん剤治療をしても1年生存率は約30%だった...。2016年9月、50歳でがんの告知を受けた刀根 健さん。残酷な現実を突きつけられても「絶対に生き残る」と決意し、あらゆる治療法を試して必死で生きようとする姿に...感動と賛否が巻き起こった話題の著書『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)より抜粋。過去の掲載で大きな反響があった本連載を、今回特別に再掲載します。
※本記事は刀根 健著の書籍『僕は、死なない。』から一部抜粋・編集しました。
※この記事はセンシティブな内容を含みます。ご了承の上、お読みください。
【前回】「この勝負、負けは許されない」がんに侵された僕へ、あるボクサーからの励まし
死の覚悟
数日後の4月12日。
妻と新宿御苑に花見に出かけた。
電車を乗り継ぎ、新宿御苑前で降りる。
地下から地上へ出る階段が辛い。
100メートル歩くと、息が切れた。
でも、横に妻がいる。
妻は僕の手を取ると、優しく引いてくれた。
目の前に広がる満開の桜。
"今、ここ"で命の輝きと喜びを全身で表していた。
きれいだ。
本当にきれい。
ここに来てよかった。
いや、ここに来られてよかった。
今年の桜を見ることはできないかもしれないと何度思ったことだろう。
でも、来られた、見られたんだ。
ピンクに咲き乱れる桜の花が僕を祝福しているようだった。
よし、来年も来るぞ、ここに。
新宿御苑に桜を見に来る。
必ず来るんだ。
僕は歩く妻の横顔を見ながら心に誓った。
花見から帰って数日後のある朝、布団の中で強く咳をした。
バキッ、胸の真ん中でいやな音がした。
瞬間、刃物で刺されたような痛みが全身に走った。
なんだ、何が起こった?
動けなかった。
まるで全身が固まったように動くことができなかった。
まずい。
何かが起こった......
もしかして咳の衝撃で肋骨が折れたのか?
脂汗をかきながら、1時間ほど横になっていたが、なんとか身体を動かした。
体勢を変えるたび、胸の真ん中に激痛が走った。
薬箱から痛み止めを取り出し、口に含んで数十分、なんとか動くことができるようになった。
用事があるとき以外は、常に寝ていたくなった。
まるで胸に鉄板が入っているかのように呼吸ができなくなってきた。
息が大きく吸えない。
胸の中に常に異物感があった。
何か得体の知れないものがゴロゴロと詰まっている感じだ。
肺は風船の塊だから基本的に軽い。
その中に密度の濃い、重い塊がいくつも感じられた。
身体を動かすと重い塊が体勢と一緒に動き、あきらかに何か別のものが体内で育っていることがわかった。
取りたい、切り取りたい、吐き出したい、でも、どうすることもできなかった。
異物感は日ごとに大きくなっていった。
おかしいな、治るって意図してんのに。
立川のクリニックでの診察の帰り、漫画『進撃の巨人』の22巻を買った。
ストーリーは大きなひと区切りを迎えていた。
久しぶりにがんを忘れてワクワクした。
次はどうなるんだろう?
次巻の発売日は8月だった。
まじかよ、生きてるかな?
僕にはその自信はなかった。
5月になった。
3人のボクシングの教え子たちが心配して訪ねて来た。
「刀根さん、大丈夫ですか?体調はどうですか?」
「大丈夫だよ、僕治るから、心配しないで」
笑いながら返した。
しかし話を始めると咳と痰が止まらなくなった。
ゴホゴホと苦しそうに咳き込む僕を、教え子たちは心配そうに見ていた。
「僕はね、引き寄せってあると思うんだ」
僕は先日来てくれた長嶺選手と土屋選手にした引き寄せの話をまた始めた。
もしかすると、引き寄せというものが僕にとっての最後の砦と感じていたのかもしれない。
話をしているうちに、あっという間にポケットティッシュが空になった。
教え子の一人がすかさず
「使ってください」
と自分のポケットティッシュを渡してくれた。
「ありがとう」
ティッシュは血痰で真っ赤だった。
真っ赤に染まったティッシュの山を見て、教え子たちは何も言わなかった。
いや、言えなかったのかもしれない。
ある日、宅配便のお兄さんがやってきた。
「お届けものですー」
それは頼んでおいたサプリだった。
「ありがとうございます。お疲れ様です」
嗄れ声で玄関に出た。
「サインお願いします」
お兄さんは紙とペンを僕に渡した。
「ここですね」
僕はペンを受け取って自分の名前を書き始めた。
刀...根...っと。
あれ?
ペンが止まる。
根ってどういう字だっけ?
「木」の横がどうしても思い出せない。
おかしい、何十年も書いてきたのに何で思い出せないんだ。
「ちょっと待ってください」
僕はごまかすと、表札を見上げた。
そっか、思い出したぞ。
木の右側を書いた。
しかし思い出しながら書いたせいか、その字は初めて漢字を習った小学生の書いた文字のようにバランスがおかしかった。
「ありがとうございますー」
お兄さんは紙を受け取ると、足早に去って行った。
僕は呆然とした。
自分の名前が書けなくなった!
なんだ?
何が起こってるんだ?
しばらくするとひらがなも忘れてしまった。
「く」はどっちに曲がっているのかが一瞬わからなくなる。
「き」がどっちにふくらんでいるのか覚えていない。
いちいち思い出しながら文字を書いていたので、文章を書くのに時間がかかるようになってしまった。
それ以降、なるべく文字を書くのはやめた。
文字を忘れてしまった自分に直面するのが怖かった。
スマホの打ち込みも極端に遅くなった。
指の動きと文字の関係を忘れてしまったのだ。
そしてやがて、動物園のナマケモノのように、全ての動きがスローになった。