<この体験記を書いた人>
ペンネーム:なんとも
性別:女性
年齢:54
プロフィール:私+夫+高3長男+高1長女の4人家族です。住宅ローンはまだあと22年! 貧乏暇無しの毎日です。
私(50代半ば)の新婚時代は今から20年前のこと。
当時、夫(私と同い年)の両親と同居しており、4人でそれなりに仲良く暮らしつつ、いつかマイホームを持てたらいいねと夫婦で相談していました。
新婚生活も1カ月を過ぎた頃、私はあることに気付きました。
家に頻繁に通ってくる女性がいるのです。
その女性はT美(当時30代前半)といって、隣家の長女です。
T美は自分の娘(当時8カ月)を連れて、頻繁に我が家を訪問していました。
彼女はここから車で30分ほどの他県に嫁いでいましたが、夫の話によると、私たちの結婚式より少し前から入り浸っていたそうです。
どうも彼女は、自分の実家にはあまり帰りたくなさそうでした。
彼女の実家である隣家、ご両親は健在で、T美より2歳上のお兄さん家族もいて三世代同居世帯。
T美なりに遠慮があったのでしょう。
でも、ウチの家にはそういう気遣いは微塵もありません。
いくら幼馴染でもなんか変じゃない?と夫に聞いてみました。
「T美兄妹の親は、子どもが小学校低学年の頃から共働きでいつも帰りが遅くてさ。それでウチのオフクロが不憫がって、ご飯を一緒に食べようってなったのがキッカケだったかな」
「ウチは俺一人っ子だし。T美の母ちゃんがよくウチにお礼を届けてたっけな。まあ、学童保育なんか少ない時代だったし」
という経緯から、T美は彼女の兄と一緒に、夫の家で小さい頃からお世話になっていたようです。
T美にとってここは「いつでも帰れる場所」なのでしょう。
義両親もT美が来るとまるで実の子どものように迎え入れます。
当然、新妻だった私は面白いワケがありません。
小さい頃からT美を育てたようなものなので、義両親の気持ちも分かるのですが...。
私がイラつく原因は他にもありました。
義両親はなぜか、T美娘の写真を所かまわず家の中に飾っていたのです。
中には写真館で撮ったような大判サイズの写真まで...。
当時、私たちにはまだ子どもがいなかったので、義両親にとっては初孫感覚だったのでしょう。
それでもまだ我慢はできていました。
結婚から約半年後、私は妊娠しましたが、呆気なく初期流産。
幸い体調はすぐに回復しましたが、気持ちはなかなか戻りませんでした。
ただでさえ神経質になっていた私のもとに、いつものようにのほほんとやって来るT美親子。
そして、家中に飾られているT美娘の写真が嫌でも目に入ってくる、そんな状況に耐えられない私はついに爆発してしまいました。
「T美さんが来るなら同居はもう無理! ここを出たい!」
私は感情的に夫に訴えました。
夫は正直な所、私がそこまで滅入っているとは思っていなかったようでした。
「わかった。できるだけ早く決めよう」
夫はすぐにそう言ってくれました。
これでT美親子から逃れられると、私は肩の荷を下ろすことができたのです。
それから1年後。
私たちは新居へ引越しました。
引越し先は、もともと敷地内にあった、夫名義の小さな土地に建てた小さな家。
マイホームをいつか建てたい希望はありましたが、まさかこんな成り行きで実現できるとは思いませんでした。
夫は優柔不断な性格ですが、このときの決断は早かったと思います。
それからもT美親子はしょっちゅう来ていましたが、私は以前のようにイラつくこともなく、彼女と談笑できるほど余裕が生まれました。
そして、T美娘が幼稚園に入園すると、やって来る頻度はぐっと減少。
私たち夫婦にも子どもが生まれ、T美とは今では年賀状程度ですが、付き合いは続いています。
結果論ですが、T美親子がいたお陰で、早い段階でマイホームを持てたのかと思うと、彼女たちに少しだけ感謝です。
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