<この体験記を書いた人>
ペンネーム:ころちゃん
性別:男性
年齢:55
プロフィール:50代も半ばにさしかかり、健康や仕事のことなど、いろいろ考えるようになった今日この頃です。
私が40歳の頃、大病を患ったときの話です。
当時70代だった両親は典型的な昭和の親で、しっかり勉強しろ、きちんと片付けろ、など比較的厳しかったとはいえ、今は愛情を込めて育ててくれたと感謝しています。
私は大学入学の際に親元を離れ、就職先も県外で、それ以来結婚するまで一人暮らしを続けてきました。
子どもの頃は比較的従順でしたが、大人になるにつれて徐々に親の助言も聞かなくなり、両親から健康管理や結婚について聞かれても「大丈夫」と一蹴し、気ままに暮らしていました。
両親に対して素直になれず、反発する気持ちがあったのも事実です。
大学卒業までは一応順調でしたが、その後一度仕事を辞めると、タガが外れたように転職を繰り返し、昼夜逆転の不健康な生活に陥いることもありました。
どうにかこうにか暮らしていましたが、それにストップをかける出来事がありました。
40歳の頃に突然体調を崩し、風邪かと思い訪れた病院で、50代くらいの担当医は私に指一本触れることなく大病院への紹介状を書きました。
入院など夢にも思っていなかった私は大きなショックを受けましたが、両親に入院の報告をする際、病状についてはかなり軽めに伝えました。
それまで「大丈夫」と言い切っていた手前、非常に決まりが悪かったのです。
実際、私は厄介な難病に罹っており、消化器の潰瘍がたびたび体に悪さをしてきました。
一過性のはずの40度近い高熱がなぜか一週間たっても下がらず、おぼろげな意識の中、担当医からは複数の病気の可能性さえ告げられました。
身体的な辛さにうめく数夜を過ごした後、ついに救命行きとなり、数人の看護師に抱えられて移動用のベッドに移され、救急車で運ばれました。
救急病院に到着し、医師からの質問になんとか答え、幾重もの厳重なドアを越えて救命病棟に落ち着いたときです。
「ご両親が到着しました」
看護師さん? 医師? どちらか分からない明るい声に私は驚愕しました。
「ちゃんとしてる」
「大丈夫」
両親の忠言に対して、何百回そう言ったことでしょう。
それなのに、そのときの私は体中に何本もの管がつき、髪はぼうぼう、目は虚ろ、口が裂けても「ちゃんとしてる、大丈夫」なんて言える姿ではありませんでした。
私は両親の反応を想像して震えました。
父は怒鳴るのかな、母親は倒れるかもしれない...2人ともショックで取り乱して幻滅するだろう...。
思わず隠れ場所を探そうときょろきょろしていると、病室に両親が入ってきました。
私は、大切に育ててくれた体をこうまでボロボロにしてしまった罪の意識で、思わずおいおいと泣き出してしまいました。
ところが、両親は極めて冷静でした。
私の様子に動じることもなく、母親はきょとんとして言いました。
「自分の子が病気になったから見舞いに来ただけでしょ。どうしてそんなに騒ぐの?」
父親は穏やかな笑みを浮かべてこう言いました。
「身体を治すことだけ考えてゆっくりしろ」
がつんと頭を殴られたような衝撃でした。
親というのは、私が思っていたよりも大きな存在でした。
自堕落な生活をいさめられるのでは、なんて思っていた自分はなんて小さいんだろう...本当に恥ずかしくなりました。
薬のアレルギー反応で肝臓が弱っており、万が一の場合を踏まえて病院が両親を呼んでくれたことは後で知りました。
幸いなことに、その後は「奇跡的」に回復し、しばらくして退院することができました。
入院をきっかけに私は改心し、仕事も生活も見直しました。
両親からの連絡もむげにすることなく、意味のない意地を張ることもやめて、少しは親孝行ができるようになったのかな、と思っています。
病気は痛すぎる教訓でしたが、あのおかげで親という存在の大きさを知り、少しは成長できたと感じています。
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