食事介助中に認知症の祖母が見せた、一筋の涙

食事介助中に認知症の祖母が見せた、一筋の涙 18-pixta_19180799_S.jpg

ペンネーム:yako.m
性別:女
年齢:37
プロフィール:事務職で入社した介護施設での体験が祖父、祖母の介護の助けになりました。


高校を卒業後に就職した身体障がい者養護施設。私(37歳)が初めて介護を体験させていただいたのが、ここでの食事介助でした。

ベットメーキング、お風呂介護等、引っ切りなしにあるケア課の仕事の中で、唯一私のような事務職でも手伝いができるのが食事介助で、週に何度か手が足りなくなるとヘルプに回る事がありました。 

初めて食事介助をさせて頂いた入所者の方は、体の麻痺があり、口を開けるのがやっとという状態で、とても緊張したのを覚えています。ケアの方が丁寧に教えて下さり、口に運ぶ量、間隔に気を付けながら食事を終えると、それに熱中するあまり大して会話を交わしていないのに気づき、慌てて「食事どうでしたか?ペースは早くなかったですか?」と尋る始末です。ですが、ニコッと笑いかけて下さり、喋れないながらも身振り手振りで伝えようとして下さる様子に心が温かくなりました。

こちらでは沢山の方の食事介助をさせて頂き、私にとっての介護の原点となり、良い経験を積ませていただきました。

 
そんな私が祖母の介護に関わりだしたのは、私が施設を退職し実家の整備工場に勤め始めてから7年後の平成20年8月のことです。

祖母に呼ばれた気がして目が覚め、台所に行くと、ヤカンと味噌汁の火が付けっぱなし。しっかり者の祖母には珍しい、と胸騒ぎがしました。祖母を呼んでも返事がありません。ふとトイレのドアを開けると、床に丸まるように祖母が倒れていました。
表情は苦しそうです。これはただごとではないと慌て、実家が車で5分程度の所だったので救急車より早いと判断し父に連絡をし救援を頼みました。

父の車で運ばれ、総合病院に行く道すがら会話が出来るまでに落ち着いた祖母に「ありがとう」と手を握られると、少し冷たいものの温もりを感じ、ああ、もう祖母は大丈夫だと、根拠なく感じました。 

病院で、お医者様に脳梗塞を発症し左半身に麻痺があると聞かさせても、そのうちまた歩いて、車の運転も出来るようになると信じていたのです。

 

祖母の退院の日が決まり、さあ介護するぞ!と母(63歳)と共に意気込んでいましたが、ベットから起こす時にも余り力が要らないくらい祖母の力が強く、やる事といえば歩行補助と着替えを手伝うぐらいで、祖母の回復を実感しました。

祖母が元気だった頃よりお世話になっている年配の整体師の方が大変熱心な方で、歩行練習などのリハビリを積極的に行って下さり、杖を付いての歩行がゆっくりながらスムーズになり、訪問介護、週2日のデイサービスも利用させて頂きつつ、母と私は安心して仕事も普段道理に行えました。これはやはり車の運転も夢じゃない、と介護が楽しくなるのを感じました。

 

ですが、物事はそう簡単ではありませんでした。朝とお昼の食事介助は私の仕事と大体役割ができ、生活に馴染んで来た頃の事です。当時はまだ車椅子を使っていなかったので、キチンと椅子に座り、小さめのテーブルで対面して一緒に食事を取っていました。祖母はイチゴが好きだったので、デザートに用意したのですが、真っ先にイチゴを平らげると、私のお皿のイチゴにも手を付け始めたのです。「それ私の分だよ?」と説明するも、ゴメンねと言いながらも平らげてしまいました。そのときは、まあ好物だしいいか、程度に思っていたのですが、段々自分の気に入ったものにしか箸を付けなくなり始めました。

そして、杖なしの歩行訓練も視野に入れていた矢先のことでした。いつもより祖母の調子が悪かったのか、足元がふらつき整体師さん宅へ訪れる途中転倒してしまったのです。念のため病院で診察を受けたところ、認知症の様な症状が出てしまっているとの診断でした。私の分のイチゴも食べてしまったあの何気ない行動も、認知症の兆候だったのです。

 
これを期に私は実家に移り住み、なるべく祖母が1人になる時間がなくなるよう模索しました。月、金はデイサービス、火曜は訪問介護というように、一週間色々な方と接する機会をもうけ、介護の面でもベッドから起きられない祖母の移動の方法を教えてもらったりしながら、なんとか母と一緒に乗り越える事が出来ました。こうして手伝える事が増えましたが、やはり私が安心して任せてほしいと言えるのは食事介助で、「祖母のために私にもできることがある」とやりがいも感じていました。 

そんな中、尿路結石による熱が出ては、入退院を繰り返す時期がありました。何度目かの夏が近づいたある日、お医者様に胃ろうを進められました。私は、根気よく口に運べば食べてくれるし、胃ろうにする必要がどこにあるんだと思いました。まだ祖母は介助さえあれば食事ができるし、私だって手伝える!と思ったのです。

ですが、決めるのは本人や母達だと思い余り強くは反対できず、結局胃ろう手術を行いました。夏が来て暑くなれば今の水分量では足りなくなるから、水分だけでも胃ろうから摂取すると聞き、やっと自分の中で納得がいきました。

 
何度目かの入院の時、いつまでも、もごもごと口を動かすばかりで中々食べてくれないことがありました。私の中の知識を総動員しながら、嫌いなものがあったのか、痛いところはないのかと、本人に聞きながら原因を探ろうとするも、首を横に振るばかり。
そうであってほしくないと思いながらも、「飲み込みづらい?きつくなっちゃった?」と聞くと、祖母は一筋の涙を流したのです。祖母は、これまで頑張って食べていたんだと、涙をこらえるのに必死でした。祖母の自身の力があって初めて、私でも介助できていたのです。介護の難しさを痛感しました。

 
そして、平成28年7月、祖母はいつものように熱が出て入院した先で、眠るように息を引き取りました。86歳、倒れてから8年間も頑張りました。
私は祖母からもらったたくさんの思い出を胸に、今も毎日を過ごしています。

健康法や医療制度、介護制度、金融制度等を参考にされる場合は、必ず事前に公的機関による最新の情報をご確認ください。
記事に使用している画像はイメージです。
 

この記事に関連する「みなさんの体験記」のキーワード

PAGE TOP