性別:男
年齢:69
プロフィール:30年ほど前に母親を引き取り、離婚を経験し、その後、再婚した妻と二人きりの年金生活者です。
※ 毎日が発見ネットの体験記は、すべて個人の体験に基づいているものです。
◇◇◇
80歳を少し前にして私の父が亡くなりました。その葬儀の事後処理のため親族が集まった話し合いのなかで、一番の問題は、独り残された72歳の母をどうするかということでした。
私は男3人兄弟の末っ子です。長男夫婦は東京に、次男夫婦は地元である名古屋に、私たち夫婦は静岡にそれぞれ住んでいました。
父が亡くなるしばらく前に、両親は長男の所に引き取られて東京にいましたが、長男の嫁との折り合いが悪く、東京の生活にもなじめずにすぐにまた名古屋に戻ってきていました。
一方で、次男夫婦は両親と同じ名古屋に住んでいることもあって、ふだんから互いによく往来もしていたよう。次男の嫁と気難しいあの母が、実の親子かと思われるくらい打ち解けているように、私たち兄弟は思っていました。
そんな経緯があったから、母の問題が難航するとは、私は露ほども思っていませんでした。長男が再度引き取ることにも無理があるし、母もできれば名古屋を離れたくないだろうし、自然に次男夫婦のところに収まるだろうなどと、勝手に当て推量していたのです。
ところが、「女房が一緒に住むのは絶対に嫌だ! と言っている」という台詞が次男の口から飛び出た時、私は自分の耳を疑いました。長男の感想も、私とそれほど違っていなかったはずです。
気まずい沈黙がしばらく続きました。
それに耐えきれずに「いいよ、俺が引き取る」と、私は言っていました。
半分はヤケクソです。
半分は次男夫婦に対する訳のわからない憤りでした。上から順に「無理だ」「絶対に嫌だ」ときたら、末っ子の私に選択権は残っていません。長男も次男もほっとしたのがわかりました。
そんなつもりじゃなかった私は、妻に事前に母を引き取ることになるなどという打診もなにもしていませんでした。
帰宅して「母を引き取ることになった」と、不機嫌そうに言う私に、妻は無言で顔をしかめるだけでした。
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一度こんなことがありました。私の家に移ってからも、母はたびたび次男夫婦の所へ泊まりがけで出かけました。そんな折、かならず手に一杯の荷物を次男宅に運んで行きます。それは勤め先の出入業者が、私宛に送ってくる盆暮れの付け届け品です。「あの夫婦はこういう物を喜ぶから」と、母は独り言のように言い訳めいたことを言いながら、いそいそと名古屋に向かうのでした。
そして、母が名古屋から帰宅したときのことです。母が妻に「すっかり世話になったからお礼の電話をしてやってくれ」と命じたのです。
私はさすがに堪忍袋の緒が切れました「いったい、誰が誰にお礼をいう必要がある!」。
私は妻にでも母にでもなく怒鳴っていました。
調子のいい次男の嫁のことだから、下にも置かず母を歓待したのでしょうが、その態度と「一緒に住むのは絶対嫌だ!」という台詞とがどう結びつくのか、私には信じがたく。よほど、そのことを母にぶちまけてやろうかと思ったほどでした。ただそれはそのときも今もできませんでした。
それから20年余も私は母と一緒でしたが、ついに私はこの母が好きにはなれませんでした。家にいるときは暗くて無口なのに、外面だけはいいという性格が許せなかったのです。母を引き取ってからの私の40代50代という時間は、母に苦労させられたという思いが強くあります。
母を引き取った後、2年を待たずして、妻とは母が原因で離婚することになりました。母のほうはと言えば、その間「すまないね」もなければ「世話になるね」もありませんでした。
けれども、ほんとうに苦労したのは私ではなく離婚した前の妻であり、離婚後数年して一緒になった今の妻です。そんな至極当然のことに今更ながら気づく私。つまり、私が母を軽蔑していたのは、目クソが鼻クソを笑うようなものだったのです。
あるとき、今の妻から「あんたたち親子はよく似ているよ」と言われたとき、愕然としたと同時に妙に納得もしました。この妻は、認知症の始まっていた母の下の世話まで、嫌な顔ひとつせずするような女性です。私はそれだけで頭が上がりません。
母も長男も次男の嫁もすでに他界した現在、すべてが今は昔という感じがして、私もずいぶんと穏やかな毎日を送ることができています。
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