壁の赤い文字と離婚届。全く気付かなかった同居する母と妻の確執

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ペンネーム:オイラ
性別:男
年齢:69
プロフィール:30年ほど前に離婚、その際に引き取った長女もすでに嫁に行き、その後再婚した妻と二人きりの年金生活者です。

※ 毎日が発見ネットの体験記は、すべて個人の体験に基づいているものです。

◇◇◇

その日の昼食時、めずらしく会社へ妻から私宛に電話がありました。

「今から出かけますから、テーブルの上に置いたものを読んでおいてください」

それだけ言って、電話は切れました。その電話が気にかかって、会社からそれほど離れてはいない自宅に戻ってみました。ひとけがありません。

静岡県に住む当時39歳だった私の家族は、37歳の妻と小学生で6歳の娘、3歳の双子の娘、72歳になる私の母の6人です。母は前日から名古屋へ泊まりがけで出かけていて、上の娘はまだ学校のはずです。わざわざ電話まで寄こして、妻と下の二人の子は何処へ出かけたのだろうか? 私は自宅のすべての部屋をたしかめるようにして覗いてみました。

いつも母が寝起きしている部屋を見た時、壁に大きな赤い文字が書かれていたのです。

「呪い殺してやる」と、そこにはありました。

その時、私にはまだ事態がのみ込めていませんでした。

驚きながら居間に戻り、電話で妻が言っていたテーブルの上を見ると、1通の封筒が。それには離婚届が入っていたのです。すでに妻の署名と捺印がされていました。全身に弱くはないショックを感じながら、先刻の電話から封筒までの事態が私のなかで一本につながりました。

妻が出て行った日より数日前の深夜。いつもは子供たちと先に就寝しているはずの妻が、めずらしく居間にこわばった表情で座っていました。仕方なく、背広を着たままの格好で私も妻の前に座りました。

「私をとるか、おばあちゃんをとるか決めてください!」。

藪から棒に、でした。「おばあちゃん」とは、1年半ほど前にやむをえず引き取った私の母のことです。口数少なく私に迫る妻の言い分は、母とこのまま一緒に生活していかねばならないのなら、妻が出ていくしかないということでした。

これに対して私は、母と妻を二者択一にかけるようなことなどできるわけがないと、しどろもどろの態で応えるのが精一杯。その時の私は、妻がこんなに深刻な確執を抱いているとは考えていなかったのです。

というよりも、そんな問題が妻と母の間にあるかもしれないということに、みじんも思い至っていませんでした。

実際に母を引き取ってからこの方、私は自分の前で妻と母が諍いをしている光景を一度も見たことがありませんでした。妻も母もともに無口なほうということもあるのか、離婚まで考えるような葛藤があることに、全く気づきませんでした。私にだけ見えない暗い陰湿な争いが、この家の中で妻と母のあいだに進行していたわけです。

私は自宅の居間で離婚届をながめながら数日、堂々巡りの思案をしていました。妻が残していった長女は事態が飲み込めるはずもなく、私も要領を得ない説明しかできません。母は、この件について私に一切口を開きません。この事態と自分は一切関わりがない、私には母の態度がそう言っているように見えました。

妻からはなんの音沙汰もありません。妻の居る所を捜しだして謝り倒そうかとも考えてみましたが、謝るのはいいとして「それで、今後のことはどうするの?」と妻に問われたら、解決策は何もないのです。母に「出て行ってくれ」とでも言えばいいのか...?でも、これまで育ててくれた恩を考えると、言えるはずもありませんでした。

ないないづくしの私に、一週間ほどして妻から電話がきました。早く離婚届を出してくれないと、自分たちのいろいろな手続きに困るという趣旨でした。私は、その妻の声を耳にしたとき、離婚届に捺印する決意をしました。自分たちって誰と誰のことだ!ろくに話し合いすることもなく、一方的に長女まで置いて出て行った妻に対する怒りもありました。

こうして、私たち夫婦は離婚しました。

母はそれから20年近くも長生きしましたが、「世話になったね」などの一言はついぞありませんでした。

渦中にいる時は、「妻や母がもう少し言葉に出してくれていれば、事態が悪化する前に気づけたかもしれない」などと考えていたこともありました。でも、よくよく考えてみると私自身も口数が足りているほうではないと気づかされたのです。

あれから30年。そんなところは似なくてよかったのになあ、と、当時の自分を思い出しては苦笑いしています。

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