性別:55
年齢:女
プロフィール:明治生まれの祖母と昭和一桁生まれの両親に育てられた、日本の高度成長とともに成長してきた昭和ど真ん中世代。
※ 毎日が発見ネットの体験記は、すべて個人の体験に基づいているものです。
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私が物心がついた頃には、すでにテレビは家にありました。
父や祖母、叔父や叔母などが同居する大家族だったこともあったのでしょうか。私の記憶の中では、最初は子供の手の届かない引き出しタンスの上にあり、さらにカバー代わりの布がかけてありました。
その頃のテレビはもちろん白黒テレビ。私のなかで一番古い記憶は『ブー・フー・ウー』という名前の豚が出てくる番組。なぜか今でもキャラクターをはっきりと覚えています。
幼稚園の頃に家が新しくなり、祖母と両親と兄の5人家族になった頃にはテレビは大きくなって茶の間に移動。お膳の横の低い位置に置かれて目線の高さになりました。
祖母はプロレスが好きでよく見ていました。対アメリカ的な構図の時はよく「アメリカさん(なぜか「さん」付け)なんか、やっつけてしまえ」なんてこともあり、レスラーが凶器をパンツに隠していれば大騒ぎです。第二次世界大戦での思いを投影しているのは、子供心にもよくわかりました。
そして、時々テレビの映りが悪くなるとテレビの横をたたきます。それで映るようになったのですから、今思うと笑い話のようです。
テレビが低い位置に降りてきて、私や兄も自分でチャンネルを変えることができるようになれば、当然兄と妹、男の子と女の子の番組争いになります。二人で見ることができた『サザエさん』や『ムーミン』は平和なアニメでした。
テレビがカラーになったのはおそらく大阪万博が終わった頃。チャンネルも丸くてガチャガチャ回すタイプのものから、画面の横に縦に伸びるチャンネルスイッチに代わり、ボタンでチャンネルを変えられるようになってからはテレビの横をたたくこともなくなりました。
離れて操作できるリモコンが登場する頃には、私は定期テストに追われる学生になり、気分転換で見たテレビに時間を奪われて後悔することも多々ありました。
結婚して家を出てからも、夫の父が購入してくれたテレビにお世話になり、そのテレビをもって夫の転勤先にも移動。そこで見ることになった阪神淡路大震災では、連絡の取れなくなった両親と家の状況を知るために、一日中テレビにかじりつきました。偶然にも、被災した中学時代の同級生をテレビの中で見つけたときは涙しました。
子供の頃に見たアニメの歌は今でも歌えるし、よど号のハイジャックや浅間山荘事件のシーンも覚えているほど、多くの時代を映しながら私の生きた歴史も刻んできたテレビです。思い起こしてみると、本当に長い付き合いでした。
ですが地デジに代わる時に思い切ってやめることにしたのです。地デジ変更の煩わしさや当時加入していたケーブルテレビの利用料の値上げなどが原因だったのですが、生まれてからずっと私の傍らにあり親子以上に長く一緒に暮らしたというのに、なくなってもそれほど寂しくないのが意外でした。
今、テレビがない生活を5年以上続けていますが、きっとこのまま生活していけるような気がしています。私の中ではテレビと育ってきたのに、それを手放し、かつてあったテレビを懐かしく思う新時代の到来? そんな風に感じている今日この頃です。
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