境遇にもめげず一生懸命頑張る親友の姿に勇気をもらっている私

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ペンネーム:あき葵
性別:女
年齢:47
プロフィール:高校生になる娘2人と息子の3人を一人で育てているパワフル母さんです。

私がその友人と知り合ったのは高校生の時でした。彼女は周囲との関係を避けるかのようにいつも一人でいて、群れる事はなく、「暗い」と

レッテルを貼られていました。ある日、私が部活の試合前で居残り練習をして、一人急いで夜道を帰宅していると、自宅の近所の公園に人影が。
近づいてみると、泣いている彼女でした。私は驚きました。暗くてよく見えなかったけれど、間違いなくそれは彼女でした。

次の日彼女は欠席、3日ほどたって、登校してきた彼女はマスクをして登校してきました。

風邪でもひいたのだなと思っていましたが、体育の時間、私は見てしまったのです。
彼女の細い腕に、無数のあざができているのを。
驚いて、彼女と中学が同じだという友達にそれとなく彼女のことを尋ねると、家が複雑で大変らしいという話でした。
私はどうしても彼女が気になり、次の日に思い切って声をかけてみました。一瞬驚いたような顔をした彼女でしたが、真っ赤な顔をして無視されてしまいました。それからというもの何度無視されようとも、粘って何かあるたびに彼女に声をかけ続けました。

彼女と私の家は偶然にも近かったこともあり、それから何度か公園で見かけたりして、徐々に彼女とは親しくなっていきました。 私なんかの苦労知らずのへらへらとした話を、彼女はいつも笑いながら黙って聞いてくれていました。

我が家にも何度も遊びに来てくれて、一緒にご飯を食べたりもしました。彼女が家に遊びに来て、唐揚げを母がしてくれた時、彼女が「へえ、唐揚げって家でできるんだ。買ってくるものだと思ってた!」といった時は、本当に驚きました。お弁当の時間、そういえばいつも一人だったし、仲良くなってからも、コンビニのパンが多かったことを思い出しました。

彼女の父親はDVで母親や子供を殴るそうで、小学生の時も学校にあまりきていなかったそうです。結局その後彼女の両親は離婚をしたらしく、彼女は母親と逃げるように引っ越して行きました。突然いなくなった彼女に裏切られた気分で、とても悲しかったのを今でも覚えています。



それから、10年彼女から突然連絡がきました。驚きました。連絡先を覚えていたことにも驚きました。

彼女は、突然引っ越してしまったこと、最後に挨拶もできなかったことを気にしていたそうです。母親は、他に男の人ができたのですが、彼女はその男の人と馬が合わなくて、母親はその男の人と逃げてしまったとか。そんな話はドラマの世界だけだと思っていたので、正直驚きました。

結婚して子供ができ、しばらくは幸せに暮らしていたと話してくれました。でも二人目の子供が分娩の際の事故で障害が残ってしまったようで、障害を抱えた子供を受け入れられない夫とは離婚することになったと。一人になって、私を思い出して勇気をだして連絡をくれたようなのです。

正直私はとても嬉しかったのです。裏切られていたと思っていたのが違っていたこともそうですが、10年も音信不通だったのに、私のことを思い出してくれた事がとても嬉しかったのです。

その後近所で暮らし始め、以前のように行き来することになりました。母子家庭になり、介護士の免許をとり、小学生と障害のある娘をかかえて暮らしていくことはとても大変だったと思います。それでも彼女は弱音をはくことはせず、いつも一生懸命でした。

しかし、彼女の不幸はこれで終わらなかったのです。ある日、彼女から泣きながら電話が入りました。

あわてて行ってみると、自分は乳がんに侵されていると。神様はこの世にはいないのかと二人でわんわん泣きました。さんざん泣いて、「やるっきゃない」と彼女がにっこり笑ったあの顔を、私は一生忘れる事はないでしょう。
なんて強いのか、と感嘆しました。

それから、彼女のために役所をまわり、知り合いやつてを頼って、色々と調べ、生活保護の申請をして、なんとか暮らし向きは良くなったものの、ヘルパーさんも娘さんと合う人合わない人がいて、合わない人がくると、娘さんは手をつけられないほどの癇癪を起こして、そのたびに彼女の家に泊まりこみ、彼女の娘さんの世話をしたりしました。正直、私にも子供がいる中でその子の世話をするのは大変でした。

彼女が手術を終えて少しずつ回復に向かい、そろそろ仕事にも復帰しようかと思っていた頃、またがんが彼女を襲ったのです。そして、今度は前よりも強い抗がん剤治療も始めるので、髪の毛がぬけたり体力を消耗するといわれました。

私にも生活があります。
わが子の面倒は母が見てくれるので助かってはいましたが、自分の子の面倒は自分でみたいというのが正直な気持ちで、彼女の身内は全く知らん顔で、なんて人たちかなと、正直うんざりしたのも確かでした。
でも、彼女には両親はいないも同然、どこにいるのかも知らないということで初めて彼女が弱音を吐くのを目の当たりにしました。
自分の両親とも相談し、彼女をみんなでサポートしていこうと決意して、まず、すぐかけつけられるし、サポートできるということで、彼女をうちと同じマンションの別室へと引っ越しさせました。


それから15年たち、彼女は今だにがんと戦い続けています。

がりがりにやせ、頭にウィッグをつけながら。細い体で一生懸命に。

今年から彼女の息子は東京に就職がきまり、一人で自活を始めました。自分が亡くなったら、結局息子に負担をかける事になるから、ぎりぎりまでは好きにさせてあげたいという親心だそうです。

彼女は、先日病院で、先生からホスピスを勧められたそうです。娘がいるからと断ったら、病院で「知りませんよ」と冷たく言われたと憤慨して帰ってきました。彼女からその話を聞かされた時正直、傍で見ていて、実際に接していて、とてもホスピスを勧められるくらいがんが進行しているようには見えませんでした。
やせ細った彼女のどこにそんな力が残っているというのでしょうか。「そんなとこにはいかない。娘のためにも、まだまだ自分で頑張る」と言って泣きだしました。その涙を見た時、初めて、彼女という人を理解できていなかった自分に気づかされました。

これからあとどのくらい時間が残されているのかもわかりません。でも言うならば、私だって事故で突然明日死ぬかもしれない。そう思ったら一日一日を大切に過ごしていかなければならないなあと痛感しました。

これからも、彼女の頑張りを最後まで支えて、最後まで彼女と一緒頑張っていこうと決意しました。

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