母に対する怒りと不信感で道を踏み外した私。数年後知った母の深い愛

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ペンネーム:あき葵
性別:女
年齢:47
プロフィール:三人の子のママです。訳あって15年前に離婚して女手一つで子育てをしながら、出産と同時期に倒れた父の介護もしております。

※ 毎日が発見ネットの体験記は、すべて個人の体験に基づいているものです。

私の母は、大手企業に勤務する母の父親が満州にいるときに産まれました。戦時中でも家にはお手伝いさんがいるような家庭だったそうですが、敗戦後、夜中に北朝鮮の38度線を越えて逃げて帰ってきました。
引揚者に対しての会社の対応はとても悪く、当時逃げて帰ってきた母たちは家がなく、公民館で暮らし、食べるものもなく、とても辛い幼少時代を過ごしてきたそうです。
中学生のころから牛乳配達、高校生では新聞配達をして家計を支えた母は、ものすごく気丈で頭もとてもよく、隙のない人でした。


私には姉が一人います。私たち姉妹に対する母の教育は、勉強の事に関してはそんなには厳しくなかったのですが、生活面に関してはとても厳しく育てられたと思います。
友達の家に泊まりに行く事は禁止。近所の市民プールも兄弟同伴が絶対、駄菓子屋での買い食いも禁止。その他にも禁止事項が沢山ありました。


3つ上の姉は美人で頭もよく、いつも私は姉と比べられて育ちました。「お姉ちゃんは出来たのにどうして」と言われ、そのたびに私は自分は駄目な人間なんだと落ち込んでいました。どうしたら姉のようになんでも颯爽とできるのかと、いつも真似ばかりしていました。
ところが、この姉は性格が悪く、私はよくいじめられました。今思うと母親の厳しすぎる教育の憂さ晴らしを、私でしていたのではないかと思います。


小学5年か6年の時、どうしても算数の鶴亀算が良く解らなくて、姉と母親に必死に教わっていました。二人とも、最初は優しく教えてくれていましたが、そのうち教えるのが面倒になったのか、「方程式だと簡単に出来るのに」とかなんとか当時の私にとっては難しい事を並べ立て、二人で話をしていくうちに、しまいには「なんでわからないのかな」と言い出したのです。馬鹿にしているつもりはないのでしょうが、「理解出来ない事がわからない」というニュアンスのことを何度も言われました。


それが悔しくて悔しくて仕方がなく、同級生のお母さんが自宅でしている塾に通わせてくれるように頼みました。その問題を理解して、馬鹿にした二人を見返してやろうと思ったのです。
人生の中であれほど勉強した事はなかったのではないでしょうか。やっと理解できるようになって、テストに望みました。


採点が終わり、先生からテスト返却の日が来ました。
「今回はこのクラスで100点が二人いました」とのこと。
そして、自分の名前が呼ばれたのです。本当に頑張っただけに、あの瞬間は嬉しくて嬉しくて、今でもその時の気持ちが忘れられません。
しかし、その次の瞬間、地獄に突き落とされるような出来事がありました。
クラスで100点を取ったもう一人は、斜め前に座るクラス一の秀才の男子だったのですが、テストを取りに行った私に先生が、「お前すごいな。カンニングしたんちゃうんか」と言い放ったのです。

その瞬間どっと笑いがおこり、怒りと悲しみでいっぱいになりました。
100点をとった喜びは一気になくなり、はずかしさと悲しさでいっぱいになり、大泣きして自宅に帰りました。泣きながら、その話を母親にすると、「先生の悪口は言うものじゃありません」と、それしかいいません。「先生もそんなつもりでいったんじゃないでしょ」と。
じゃあどんなつもりでいったのよ!!小学生の私は、その瞬間に、この人も私の味方ではないのだと、そう理解せざるをえませんでした。


母に対して不信感しかなくなった私は、そこから坂を転がるように転落していきました。
学校に行かない、行っても授業は途中で抜け出し買い食いに行く、遅刻、万引き、いじめや喧嘩、そしてやがて悪い仲間とつるみ始めて、どんどん手のつけられないようになっていきました。
もともと、自分に自信のある子ならそこまで落ち込む事もなかったのかもしれませんが、いつも姉と比べられて、できない自分を卑下していた私にとって、先生からの否定の言葉よりも、母親が理解をしてくれなかった事の方がショックだったのです。
中学校にあがってからも、反抗は続きました。学校、警察からの連絡が絶えない日々で、鑑別所送りになる手前まで悪行を働きました。


その時に、生活指導の先生に言われたのです。「おまえはどこに向かって走っているのだ」と。「お間の人生はお前のものだろう。自分の人生それでいいのか。気に入らない事があったのは分かるけど、そのせいでお前の人生が無駄になっては負けだぞ」と。


先生は、私が転落するに至った事件を知っていました。そして、その時、私の知らない母の顔をおしえてくれたのです。
当時、私には「先生の悪口は言ってはだめだ」といったその母が、先生にものすごい剣幕で怒りに行っていたことを。母は、先生ひとりにではなく、あえて保護者会の席で言ったそうです。他の保護者の方にも聞いていただきたいと、保護者会のタイミングまで我慢していたのだとか。
「うちの娘は、頭はそんなに良くないかもしれないけど、一度決めたらやり通す子なんです。理解出来なかった算数の問題を理解したいと、自分から塾に行くと決めて理解できるまで何度も何度も繰り返し通い詰め、理解しようと頑張っていました。それなのに、100点を取った娘にカンニングしたのではないかなんてひどすぎます。あの子が初めて自分から頑張ろうと決めてやったことなのに、伸びる力の芽を一気に引っこ抜いてくれるなんてどうしてくれるのですか」と。「あの子の心の傷は一生消える事はないでしょう」とも言っていたそうです。


それを聞かされた時、本当に自分のしてきたことを悔やみました。
母は、鑑別所送りになる手前まできても文句も言わず、ただひたすら警察や学校や被害者に頭を必死に下げていました。
もし、もっと早くにそれを知っていたなら、反抗ばかりして、苦労かける事はなかったかもしれません。

それから、私は猛勉強をして無事公立高校、大学にも進学し、就職して結婚して母親になりました。
子育て真っ最中の今、子どもと向きあう中で母親の気持ちにハッと気付かされる事が沢山あり、また子育ては一筋縄ではいかないものだと痛感しています。
そのたびに、母もきっとおなじ思い出子育てをしてきたのかと思うと、ありがたいなあと感謝の気持ちでいっぱいです。

健康法や医療制度、介護制度、金融制度等を参考にされる場合は、必ず事前に公的機関による最新の情報をご確認ください。
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