<この体験記を書いた人>
ペンネーム:文月奈津
性別:女性
年齢:65
プロフィール:この前、花屋さんでジューンブライドという名に魅かれ、ピンクのアジサイを買いました。
現在65歳。
「嫁がこんなにかわいいとは思わなかった」
そう言ってくれた義母を思い出すたび、あんなことさえ言わなければ仲良く暮らせたのにと後悔していることがあります。
今から31年前の1990年の秋頃、夫の勤めていた会社が倒産の危機に陥りました。
給料の遅配が続き、4月になる頃には給料がもらえなくなっていたのです。
「当座をしのぐためにお金を貸して」
社長に頼まれたと夫が言うので、年末になけなしの100万を渡していたため、どんどん貯えがなくなっていきます。
私が働こうとも思いましたが、そのとき長男は2歳、そして生まれたばかりの次男を抱えていては、外に出ることもままなりません。
夫の両親には、結婚してからずっと夫の給料の1/3を送金していました。
そこで義母には年末に状況を伝え、送金ができなくなるかもしれないことも言いました。
その後も私は不安な毎日を過ごし、もう限界だと思いました。
そこで、私は義母に電話をしてこう言ってしまったのです。
「今まで面倒を見てきたのだから、これからはお姉さんから援助をもらってください。おかあさんからお姉さんに話してくれませんか?」
私のこの一言がきっかけで義母の私への態度が一変し、私を憎むようになりました。
義実家は昔、お店を営んでおり、義母は休みなく働きづめでした。
それなのに義父は「俺が養ってやっている」と言っていたそうで、とても悔しい思いをしたという話を聞かされていました。
義母にとって、一番言われたくない言葉を夫の妻の私から言われ、裏切られたように思ったのでしょう。
それまで義父母の住んでいるマンションは夫の会社の所有で、家賃はただでしたが、業績が落ちたため家賃を払わなくてはいけなくなりました。
でも、義父母のマンションと自分たちが住んでいるマンションの両方の家賃を払うことはできません。
そこで、私たちは今いるマンションを出て、義父母のマンションに同居することになりました。
引っ越して義母から最初に言われたのは、「さんざん贅沢をしておいて、食べられなくなったら転がり込んできて」でした。
私は本当に傷つきました。
給料の1/3を送るために、予算別用と日々の出費用の家計簿を2冊つけて奮闘してきたのに...。
義母の冷ややかな態度はその後も続きました。
思えば義母は、何とか私をへこましてやりたいと思っていたのかもしれません。
でも、私はいつも自分に言い聞かせていたのです。
今はこんな生活でも、いつかきっと仲良く暮らせる日が来ると。
買い物のために外に出たとき、パートの職場の行き帰り、自分を元気づけるために、さだまさしの「道化師のソネット」をよく口ずさんでいました。
でも、義母から見たら「何を言っても平気。子育てには体力が勝負とばかりに、ごはんだっておいしそうにおかわりをする。図太いあんたを見て余計に腹がたった」ようでした。
その証拠に「あんたは私と違って無神経だね」と言われたこともありました。
今になってこう思うんです。
妻は、義母の前では演技派女優になるべきでした。
何か言われたらもっとしおれて見せる、おかわりなんかもってのほか。
食事もほんの少しだけをうつむいてゆっくり食べるなど、弱々しい妻になるべきだったのでしょう。
義母は当時63歳。
義父と2人の静かな暮らしだったところに、いくらかわいい内孫といっても2人の孫を含む息子家族4人との同居は、今思うとどんなに大変だったのだろうと思います。
それでも、孫を心からかわいがってくれた義母には感謝に堪えません。
おかあさん、大根女優でごめんなさい。
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