毎日の生活にドキドキやわくわく、そしてホロリなど様々な感情を届けてくれるNHK連続テレビ小説(通称朝ドラ)。毎日が発見ネットではエンタメライターの田幸和歌子さんに、楽しみ方や豆知識を語っていただく連載をお届けしています。今回は「3人それぞれの『助ける』という行為」について。あなたはどのように観ましたか?
【前回】ドラマ『御上先生』『銀河の一票』に共通する主題を感じた第10週。本作が肯定するそれぞれの「強さ」
※本記事にはネタバレが含まれています。

田中ひかる著『明治のナイチンゲール大関和物語』(中央公論新社)を原案とするオリジナル作品で、見上愛、上坂樹里がW主演を務めるNHK連続テレビ小説『風、薫る』の第11週「凪(なぎ)にそよぐ」が放送された。
服毒自殺を図って一命をとりとめた女郎・夕凪ことセツ(村上穂乃佳)の自由廃業をめぐって、今週の物語は動く。だが、その中心にあったのは「どう助けるか」ではなく、もっと手前の「助けていいのか」という戸惑いだった。
セツを救いたい一ノ瀬りん(見上愛)は、瑞穂屋の主人・清水卯三郎(坂東彌十郎)に廃娼運動の記事を見せてもらい、掲載した新聞社を訪ねる。ところが、これまで自由廃業できた女郎はほぼいないと告げられ、逆にセツへの取材を求められる。「誰かが声をあげなければ社会は変わらないんです」と言う相手に、「人柱になれということですか」と問えば、「まあ......そういうことになりますね」。逃げてもダメ、運動に頼ってもダメ。手立ての見えないりんは、ふと「助けていいのかな」とこぼす。元気になってもまた女郎屋に戻るのなら――。大家直美(上坂樹里)も同じ迷いを抱えつつ、「でも助けたい」と意思だけは手放さない。助けることが、かえって本人を追い込むかもしれない――その重さごと、二人は引き受けようとしている。
事態を動かしたのは、一本の新聞記事だった。女郎の心中話として書かれ、名前は「夕顔」に変えられているが、セツのことだとすぐにわかる。書いたのは瑞穂屋に出入りする青年・島田健次郎、通称シマケン(佐野晶哉)。読者の同情は集まり、当時高価だった氷を解熱に使うことが許され、見舞いの品が届く。世間に責められた女郎屋の権田(梅垣義明)は客足が途絶え、ついにはセツに「消えてくれ」と言うまでになる。文字は確かに人を動かした。だが、当事者に会いもせず、事実に創作を交えて書かれた記事でもある。同情も、手のひら返しも、当事者の事情とは無関係に湧き上がり、引いていく。
今週の芯は、セツと直美の対話にある。直美は、自分を産んだ女郎の母の名が「夕凪」だったことをセツに打ち明ける。会ってみたいかと問われ、直美は言葉を継ぐ。人は生んでおしまいではない。生まれた瞬間から、生まれる前に決められた掟の中を生きていくしかない。みなしごは白い目で見られ、女がまともに働ける仕事はなく、女の髪は長くなければおかしいとされる――。
するとセツが受ける。コメを作る者がコメを食えず、鯛をとる漁師が鯛を食えない、と。直美が継ぐ。貧しい者のもらえる仕事は安い。セツがまた応じる。貧しさゆえに売られるのは娘で、それは生まれる前から決まっていた掟だ、と。互いの言葉を引き取り合うように、二人は同じ構造を別々の場所から確かめていく。どんな親でも産んでもらえただけありがたい、子を産めば過去は帳消し――そんなきれいごとを、直美は信じない。それに対しセツは、たいていの女郎は子を産まないし、産めないという現実を告げる。
売られるのは娘である、という一点に、この作品は繰り返し立ち返る。直美自身が、その構造から生まれ落ちた存在だ。彼女の刺々しさは、生まれつきの性格ではなく、そういう世界を生き抜いてきた末のものだろう。
そこに重ねられるのが、史実としての「娼妓解放令」だ。劇中、政府は西洋にならって女郎を解放せよというお触れを出す。ところが、それによって女郎屋は「女郎は自分の意思でやっている」という理屈を手にし、世間は女郎に「自業自得」という冷たい目を向けるようになる――続報の記事は、そう書く。これは創作ではない。1872(明治5)年、横浜港でのマリア・ルス号事件で、日本の人身売買をペルー側から指弾された政府が、体面を取り繕うために急ごしらえで出したのが芸娼妓解放令(太政官布告第295号)である。だが売春そのものは禁じられず、解放された女性に次の働き口が用意されたわけでもない。実質的には業者側の脱法の口実を官憲が認める形となり、「自分の意志で性を売る」という新たな論理だけが残った。名ばかりの解放が、当事者をかえって追い詰める。ドラマが描くのは、その史実の苦さそのものだ。
病院もまた、世間と同じ顔を見せる。当初はセツを厄介者扱いし、早く退院させたがっていた医師たちが、記事で評判になるや一転、「胸が痛みました」と口にし、りんと直美に早く回復させるよう促す。人の命を救う場でありながら、評判と運営に目を奪われる大人たち。その対極に立つのが、見習いの二人に「あなたたちは看護婦。たとえ見習いだとしても」と声をかけたバーンズ(エマ・ハワード)である。揺らがない信頼の言葉が、評判に振り回される大人たちの中で際立つ。
セツとの出会いを通して、直美は自分にとっての看護の意味にたどり着く。自分がつい味方したくなるのは、負けているほう、弱いほう、不利なほう。その中に、病気の人やけがの人もいるのかもしれない――病を治すだけでなく「人を」助けたいのだ、と。「金持ちも貧乏も、男も女も、当たり前に受けられる、それが看護」。売られる娘の構造を内側から知る彼女だからこそ、その言葉は重い。
週の終わり、りんの家でシマケンへの感謝の会が開かれる。そこで交わされる言葉が、「助ける」という行為を別々の角度から照らし出す。シマケンはりんをこう評する。手を動かして、走って、汗をかいて、確実に目の前の人を救っている、と。りんは、自分には社会のような大きな話はわからない、ただ目の前に苦しむ人がいれば動いてしまうだけだと返す。そして、シマケンさんはもっと大きな意味でセツさんを助けようとしていたのだ、と。だがそのシマケンは、女郎の記事を槇村(林裕太)に賞賛されても晴れない。むしろ自分をこう振り返るのだ。助けたかったのではない、助けられる自分でいたかっただけだ、まだまだ小さな人間だ、と。
目の前の一人に飛び込んでいくりん、より大きな射程で社会に働きかけながら自分の動機を疑うシマケン、そして弱い側に立つことを選ぶ直美。同じ「助けたい」という言葉が、三人それぞれ違う重心から発せられている。注目したいのは、りんと直美の手が現にセツを退院まで導いたことだ。「自分にできること」は、射程の大きさでは測れない。小さく、確かに一人へ届く手のひらにも、力がある。
では、「貧しさゆえに売られるのは娘」という掟は、過去のものになったのか。厚生労働省の2022年国民生活基礎調査によれば、ひとり親世帯の貧困率は44.5%。男女共同参画白書(令和6年版)によれば、これは先進国の中でも最も高い部類で、OECD諸国でワースト5位の水準にある。そのひとり親世帯の約9割が母子世帯で、母子世帯の母の非正規雇用は4割を超え、母自身の平均年間就労収入は236万円ほどにとどまる(令和3年度全国ひとり親世帯等調査)。女性が一人で子を育てようとすると、たちまち貧困線の近くへ押しやられる。形は変われど、「女がまともに働ける仕事はない」という直美の言葉は、今も各地で生きている。
それでも、セツは退院の日を迎える。これからどうするのかと案じる二人に、まずはフラフラ好きに歩いてみる、セツとして東京の街を歩くのは初めてだ、と晴れやかに言う。夕凪という名を脱ぎ、一人の人間として街へ出ていく後ろ姿は、この週でもっとも自由な瞬間だった。
直美のほうは、母にいつか会えるといいね、というりんの言葉に、「今はいいかな、会わなくて」と応じる。「私を産んだってだけで十分って思えたから。どこかで生きていてくれれば、元気でいてくれれば」。会わないことを選べるだけの距離を、直美はようやく手に入れた。売られる娘として始まった人生を、誰かを助ける側で引き受け直そうとしている。「凪にそよぐ」という週題のとおり、嵐のあとの静けさの中で、確かに何かが芽吹いた一週間だった。
文/田幸和歌子




