一郎と妹の桃は、6歳違い。
桃の花が咲く頃に生まれたので、〈桃〉と名づけられた子だ。
一郎と桃ちゃんは、ものすごく仲のいい兄妹だったという。
一郎は、葉山の中学時代から天才的な野球選手だった。
そんな一郎は、桃ちゃんにとってのヒーローであり、最高のお兄ちゃんだったらしい。
一郎も、そんな桃ちゃんを心の底から愛していたようだ。
葉山の中学を卒業した一郎は、野球では名門の高校にピッチャーとして進学。
そこでも、エースとして活躍する。
一郎が神奈川代表として甲子園の大会に出場するとき、そのスタンドには必ず桃ちゃんの姿があったらしい。
その頃のスナップ写真を、スマートフォンの画面で見た事もある。
やがて、ドラフト会議をへて、一郎は横浜に本拠地を置くプロ球団に入った。
当然のように、桃ちゃんの夢は、一郎がプロ野球のピッチャーとして投げる事......。
そのチャンスは、一郎が入団した秋にやってきた。
10月、球団ではピッチャーのやりくりがきつくなり、新人の一郎に登板のチャンスがきたという。
けれど......一郎が登板する前日にそれは起きた。
自転車で国道134号の交差点を渡ろうとしていた桃ちゃんは、居眠り運転のトラックにはねられた。
ほとんど即死だったという。
そのとき、彼女は13歳。いまの愛と同じ年だ。
彼女が背負っていたバッグには、一郎が登板する試合のチケットが大事そうに入っていたという......。
一郎の時間は、そこで止まっていた。
ショックから立ち直れず、野球選手としてのモチベーションを失ってしまった......。
また葉山に戻り、漁業で生きるつもりでいたようだ。
けれど、たまたま出会った愛の存在が、そんな燃えかすのような一郎に、火をつけたらしい。
運動オンチの愛に、ボールの投げ方などを教えているうちに、心の中でくすぶっていた想いが再燃......。
自分が、野球のグラウンドに置き去りにしてきたさまざまなもの......。
さまざまな人の期待や願い......。
それを置き去りにしたままで、いいのか。
このままで、一生後悔しないのか......。
そんな想いが、一郎の背中を押したらしい。
そして、野球選手への再起に向けてトレーニングをはじめたのが、つい1カ月前だ。
わたしがそんな事を思い出していると、愛がお風呂から上がってきた。
「お風呂、ありがとう」と愛。無邪気に言った。
少し茶色がかって柔らかなその髪は、まだ濡れている。
「びしょびしょじゃないか」と一郎。タオルで、愛の髪を拭いてやりはじめた。
愛も気持ちよさそうにしている。リンスのほのかな香りが、あたりに漂う......。
そして、優しくおだやかな一郎の表情......。
彼は、愛の中に、いまはもういない桃ちゃんの面影を見ているのだろうか......。
そうかもしれないと、わたしには感じられた。
窓から入る夕方の陽が、一郎の横顔や愛の髪に射している。チイチイというカモメの鳴き声が、港の方から聞こえている......。
「あ、ハンバーグ......」
と愛。口を半開きにして言った。ひさびさの肉に、目が輝いている......。
1時間後。一郎が、ハンバーグを作ってくれていた。
台風のせいで、この2、3日、魚の水揚げはない。それでハンバーグらしい。
一郎は、大きなボウルに入れたハンバーグの材料をこねている。
Tシャツから出ている一郎の腕が逞しい。
野球選手らしく太い筋肉が、力強く動いている。
愛は、とにかくハンバーグが食べられる事に夢中だ。
けれど、わたしはハンバーグの材料をこねている一郎の腕を見ていた。
前から気づいていたのだけど、男の人が、手や腕を使って働いている姿を見るのがわたしは好きだ。それは、元漁師で、そのあと料理人になったお爺ちゃんを見て育ったせいだろう。
やがて、ハンバーグを焼くいい匂いが漂いはじめた。